【保存版】ルノーと日産「20年史」のすべて

2018/11/26
1999年3月、ルノー日産の資本提携ビッグディール。米メリルリンチで当事者の1人としてこの案件に関わっていたという、トップ自動車アナリスト中西孝樹氏が、この目で見てきたルノーと日産の「20年史」をお届けする。大きな歴史の流れがわかれば、ゴーン事変の真相に近づけるはずだ。
初めて私がカルロス・ゴーン氏にお会いしたのは、1990年代後半のこと。
欧州最大のタイヤメーカー、ミシュランの北米CEOだった彼の元に、ルノーから声がかかりました。フランスの国営企業「ルノー公団」が、1996年に民間企業に切り替わったときです。
会長CEOを務めていた、仏大蔵省出身のルイ・シュバイツァー氏からスカウトされたゴーン氏は、ルノーの上席副社長に大抜擢されます。
その約1年後に、仏パリで、ルノーの証券アナリスト向け説明会がありました。ゴーン氏は、その場に一人でやってきたのです。ルノーのターンアラウンド(事業再生)を、早くも彼が引っ張り始めた頃でした。
髪型も今とは違い、メガネもかけて野暮ったい印象。しかし同時にエネルギッシュで、実力で上り詰めてきた「有能な経営者」という雰囲気を持っていました。
1998年頃のカルロス・ゴーン氏(写真:Antonio RIBEIRO / Gamma-Rapho / GettyImages)
その頃からすでに、「コストカッター」というイメージも。私の隣に座った投資家は、ゴーン氏の話を聞きながら、こうメモを取っていました。
「コスト、コスト、コスト」。以上、ピリオドです。それほど、全て「コストを削る話」ばかりだったということです。
これが、私にとってのゴーン氏とのデビュー戦でした。

「フランスからすごいやつが来る」

その次にゴーン氏に会ったのは、ルノーが日産に出資した直後の1999年6月。実はその1年前の1998年春、ルノーのシュバイツァー会長CEOが急遽来日し、日産を表敬訪問しています。
その時、「日産はどんな会社か教えてほしい」ということで、米メリルリンチの証券アナリストだった私は呼ばれ、シュバイツァー氏らルノーの経営幹部たちに、ブリーフィングしました。
来日したルノーのシュバイツァーCEO(当時)(写真:Alain BUU / Gamma-Rapho / GettyImages)
私は正直に、「日産はとんでもない会社だ」と説明しました。
「20年前はトヨタと肩を並べていたのに、この10年、ろくに利益を出したことがない」「クルマ1台を設計するのに、フロント部分はこの専務、リアは別のあの専務担当で、それぞれの言い分を聞いている」「調達はシェア割りで、全て政治的に決まり、コストはどんどん膨らむ」等々……。
当時の日産は、独ダイムラーとの資本提携を模索していました。有名なユルゲン・シュレンプCEOの時代です。しかしダイムラーは、米クライスラーと世紀の大合併をして、1998年に「ダイムラー・クライスラー」が誕生します。
これで風向きが変わり、シュレンプCEOは「日産との資本提携の話は、なかったことにする」と、ダイムラーは救済劇から身を引きました。
実はその時、私もメリルリンチで関わっていた案件として、水面下でルノーが救済のカウンター案を出していたのです。
当時、新聞各紙には「ダイムラー撤退で、日産が窮地に追い込まれた」といった見出しが踊りました。しかしその裏では、ルノーによる「もう1つの救済劇」が、大詰めの段階に来ていた。
そして、「さあ、すごい奴が来るぞ」と囁かれていた人物こそ、2年前に見た、あのカルロス・ゴーンその人だったというわけです。

「日産が善」「ゴーンが悪」ではない

なぜ、このような話をしているか。
ゴーン氏の「重大な不正」から今回のゴーン失脚事件を眺めていては、事の本質を見誤ると思うからです。歴史的な視点をもたなければ、真相に近づくことはできないはずです。