僕は国語の授業が嫌いで仕方なかった 異なる価値観の狭間で苦悩する人々を捉えた3冊
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注目のコメント
以下は、現代思想のロラン・バルト「作者の死」からの引用です。最近忘れられがちですけど。
>批評は、作品の背後に「作者」(または、それと三位一体のもの、つまり社会、歴史、心理、自由)を発見することを重要な任務としたがる。「作者」が見出されれば、《テクスト》は説明され、批評家は勝ったことになるのだ。
作者というのは、おそらくわれわれの社会によって生み出された近代の登場人物である。われわれの社会が中世から抜け出し、イギリスの経験主義、フランスの合理主義、宗教改革の個人的信仰を知り、個人の威信、あるいはもっと高尚に言えば《人格》の威信を発見するにつれて生み出されたのだ。
ひとたび「作者」が遠ざけられると、テクストを《解読する》という意図は、まったく無用になる。あるテクストにある「作者」をあてがうことは、そのテクストに歯止めをかけることであり、ある記号内容を与えることであり、エクリチュールを閉ざすことである。小学生に国語を教えることがあるが、問題集で答えとして違ったところを「どうしてこう考えたのかな?」と聞いたら子どもが察して「間近ってますよね、はい。そうですよね。」と言う。こちらとしては考え方を聞きたいのに相手は「間違ってはだめ」と捉えるのだと思う。
ずっと見ているわけでない子ではないので、多分別の人等が「間違ってはいけない」と教えているのではないかと思う。