【夏野剛の注目テクノロジー】「からだを鍵にする」生体認証をキャッチアップせよ

2018/12/3
あらゆるものがネットにつながる時代、デジタル化が進めば進むほどセキュリティのリスクは増大する。しかし、セキュリティを高めると、その一方で利便性が損なわれる。

SNSにログインする場合など、IDとパスワードを入力するのが面倒だと感じる人は多いはずだ。またIDやパスワードを忘れてしまったばかりに、思い出すのにムダな時間と労力をとられることも少なくない。だが、このID、パスワードに取って代わる強力なテクノロジーが、生体認証(バイオメトリクス)だ。セキュリティと利便性を両立するマジカルテクノロジーと言っても過言ではない。

そんなバイオメトリクスの現状とこれからを、NECバイオメトリクス研究所の水野正之所長と、NTTドコモ時代、携帯電話メーカー各社にバイオメトリクスの開発を推していたという慶應義塾大学大学院、政策・メディア研究科の特別招聘教授、夏野剛氏との対談で紐解く。
ケータイに初めてバイオメトリクスを搭載
夏野 実はね、私、「バイオメトリクスオタク」なんです。
──えっ、そんな話、初めて聞きました(笑)。
夏野 まぁ、オタクという言葉は適さないのですけどね(笑)。正確に言えば、世の中に絶対に必要なテクノロジーだとずっと前から言っている自負があるというか。
 というのも、自慢じゃないですけど、携帯電話に初めてバイオメトリクスを導入したのは、私です。
 NTTドコモに籍を置いていた時、「iモード」を打ち出して、これからはIDとパスワードが溢れかえってユーザーは不満を持つだろうから、体がカギになるバイオメトリクスは必要になると感じていたんです。それで、各社に指や顔、静脈など方式はなんでもいいから搭載してくださいってお願いしました。
 それで、バイオメトリクスを初めて搭載した機種が発売されたのが2003年。アップルがiPhoneに指紋認証機能「Touch ID」を初搭載したのはその10年後の2013年ですから、ね、すごいでしょ(笑)。
バイオメトリクスは人とテクノロジーをつなぐUI
──なるほど。それは確かに早い。ここ最近では、スマホでも顔認証が出てきたり、ATMでも静脈認証が一般化しつつあります。
夏野 社会がようやくテクノロジーをキャッチアップしたんでしょう。バイオメトリクスってセキュリティの担保と利便性の確保という、一見すると相反する事柄を両立しているテクノロジーだと思うんですね。
 先ほど話したように、今私たちの暮らしやビジネスはパスワードまみれです。それぞれのサービスごとにIDとパスワードを用意する必要がある。面倒だから、全部同じにするとか、デバイスに記憶させたくなります。ただ、これだと煩雑な作業がなくなる一方で、セキュリティがヤバイ。PCのログイン用パスワードを付箋に書いて貼っているなんて愚の骨頂……。
 それに、今後は高齢者も増え、彼らも含めてもっとテクノロジーを活用していくようになるのに、IDとパスワードを入力してなんて、ハードルが高すぎますよ。物理的な鍵にしても、紛失や盗難の可能性がありますよね。もはや、バイオメトリクスはマストなんです。
水野 そこまで言ってもらえるとやる気がより一層みなぎります(笑)。
 補足すると、精度も高まります。たとえば顔認証なのですが、免許証や空港の入国手続きなど人が他の人の顔を認証するシーンはありますよね。でも、人はミスするもの。テクノロジーの進展によって、人がやるべきこと、テクノロジーに任せることの棲み分けがますます進むと思いますが、「認証」においては確実にテクノロジーに任せたほうがいい分野です。
 バイオメトリクス技術は、デジタル社会とリアルな社会をつなぐインターフェイス、チャネルとして最適であると、私も考えています。ましてやIoTやAIが進化するこれからの時代においては、バイオメトリクス技術の価値や有用性は、より高まっていくことでしょう。
夏野 テクノロジーはどんどん進化していますよね。ただ、そのテクノロジーを使うのはどんなにAIが進歩したとしても人。水野さんのおっしゃる通り、人とテクノロジーをつなぐインターフェイスはものすごく重要なんです。
 このインターフェイスの一つとしてその人が正しいユーザーかどうかを判断する認証があるわけで、これだけテクノロジーに触れる機会が増えているにもかかわらず、このインターフェイスが一向に進化していない。もっとバイオメトリクスは普及しなければならないんです。まだまだ遅い。せっかく便利なものがあるのに、超もったいないですよ。
 僕は長い間携帯電話事業に携わっていたからわかるんですが、バイオメトリクスは、特にスマホとの相性がいい。顔認証に必要なカメラ、ネットワークが備わっているからです。
 だから、NECがバイオメトリクスに古くから取り組んで技術を磨いているのは、お世辞抜きで評価しています。ところで、NECのバイオメトリクスって複数ありますけど、特に顔認証が強いですよね。
50年前からバイオメトリクスを研究してきた
水野 NECがバイオメトリクスの研究をスタートとしたのは、今から40年以上も前、1970年代まで遡ります。
 1971年に指紋認証技術の開発を始めて、1989年には顔認証技術の研究をスタートさせました。他社に比べて研究・開発の歴史は長いほうだと思います。
 バイオメトリクスの研究・開発はほかのテクノロジーを研究・開発するR&D部門内にあったのですが、バイオメトリクスがキーテクノロジーとして注目されるようになった今、技術的にもビジネスとしてもよりドライブをかけようと2018年にバイオメトリクス研究所として独立したんです。
夏野 バイオメトリクスがこれだけ注目されるようになったのは、IoTやディープラーニングなど、他のテクノロジーの進化も大きいですよね。
水野 そうです。バイオメトリクスは、カメラなどのハード技術、データを解析するソフトウェア技術、セキュリティ、両方をつなぐネットワークやクラウドなど複数の技術で構成されており、これらの要素技術を持ち合わせる必要があり、結構複雑なんです。
 また、IoTやAI、特にディープラーニングといったホットなテクノロジーは、精度を高め、応用範囲も高めています。
夏野 そういった意味でも、大手総合テクノロジーメーカーとして画像認識、クラウドなど、他のさまざまな領域で高いレベルの技術を持っているNECのバイオメトリクスには期待していますし、実際に使うユーザーは安心を覚えると思います。
 実は最近、バイオメトリクスの隆盛をビジネスチャンスと捉え、参入してくるベンチャーを見かけるんです。ところがテクノロジーを詳しく調べてみると、まあ、ひどくて技術レベルが低い。一朝一夕でできない技術なわけだから、当たり前といえば当たり前です。
 NECは、さまざまなバイオメトリクスの種類を手がけるマルチモーダルでもある。そのことも、かなりの強みですね。認証方式の「掛け算」ができて、飛躍的に精度をあげることができますから。
水野 NECでは6つの認証技術を持っています。顔認証の他にも指や手のひらの模様を利用した「指紋・掌紋認証」。声の特徴を利用した「声認証」。目の真ん中、瞳のまわりにある模様を利用した「虹彩認証」。指先の静脈を透かして認証する「指静脈認証」。耳穴に音波を送り、その反響音から個人を特定する「耳音響認証」です。
 そして最近ではこれら6つの生体認証を「Bio-IDiom(バイオイディオム)」としてまとめ、お客様に提供しています。
技術を組み合わせる「マルチモーダル」
──マルチモーダルとは、具体的にどういった内容なのでしょうか。
水野 クライアントのニーズやエンドユーザーが使用する状況などを考え、最適な認証技術を組み合わせる。そのご提案ならびにシステムの構築ができる、ということです。
 たとえば自宅に入る際、鍵は1つよりも異なる2つであった方が、セキュリティレベルは高まります。ですが家の中の各部屋、トイレなどにつける鍵は1つで十分ですよね。セキュリティレベルは単に高ければよいというものではなく、利用者の利便性も考慮しなくてはならないからです。
 本人が自覚しているかどうかも重要なポイントです。たとえば警備が厳しい建物に入る際には本人も納得の上で、多少時間がかかったとしてもセキュリティレベルの高い虹彩認証を行う。一方で一度建物内に入ったら、あとは本人が自覚することなく自動で顔認証を行うことで、自由にオフィス間を移動できる、といった具合です。
技術コンテストで最高評価を何度も獲得
夏野 先の信頼の部分に関連しますが、NECのテクノロジーは数々のコンテストで、高い評価を得ていますよね。
水野 指紋認証技術においては、米国国立標準技術研究所(NIST)の指紋認証技術のベンチマークテストにおいて第1位の評価を獲得。また、顔認証技術のベンチマークテストで4回連続の第1位。さらに、今年4月には虹彩認証でも同じく1位を獲得しました。
夏野 やっぱり、すごい。
──すでに実装・運用している事例ではどのようなものがありますか。
水野 たとえば、インドで国民全13億人のIDの管理ならびに認証システムを、インド政府と協力しながら構築しました。このシステムでは「顔認証」「指紋認証」「虹彩認証」を組み合わせたマルチモーダル生体認証を使っていただいています。
 さまざまな人の中から、本人確認が確実で高速に証明できるようになったことで、雇用や非常時対応といった社会のさまざまな場面で、インド国民が公平に社会サービスを受けられるようになったと高い評価を得ています。
 そのほかにも、イギリスのSouth Wales警察に顔認証システムを、米国最大の保安局・ロサンゼルス郡保安局(LASD)、ロサンゼルス市警およびその他ロサンゼルス郡45の市警察に対し、指紋・掌紋・顔・虹彩といったマルチモーダルな生体認証システムを導入。実際に事件の解決に寄与した、との報告も受けています。
 国内では、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンやコンサート会場などでの入園・入場時における顔認証システムを導入しています。
 そして2020年に東京で開催される東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会で、大会史上初めて大会関係者約30万人の入場時本人確認に、当社の顔認証システムを納入することが決定(*適用は大会時から)。これまでの実績は世界70カ国以上、700システム以上にのぼります。
まだ序章。「人を理解する」のがゴール
──バイオメトリクスの未来についてお聞かせください。
水野 まだ序章であり、生体認証はあくまで入口のサービスだと考えています。私たちが最終的に目指しているのは「人を理解する」ということ。ヒューマンセンシング、状況認証サービスのご提供です。実はバイオメトリクス技術の開発自体、もともと生体を測ることが目的としてスタートしたものでした。
 たとえば今、私は夏野さんと対談しています。目の前にお顔があるから、夏野さんが気持ちよく話しているのか、あるいはその逆なのか、といったことがわかるわけです。もっと言えば、少しお疲れのご様子だな、というところまでわかってしまう。
──本来、人は相手の顔を見て本人の「認証」だけでなく「心も読んでいる」ということですよね。そこまでテクノロジーが担うようになる、と。
水野 ええ。すでに実証実験に入っているものもあります。たとえば、顔認証技術を応用して、従業員の心理状態を見える化する取り組みを行なっています。まぶたの揺らぎに着目し、従業員の眠気状況を把握し、働き方改革の一助にしようというものです。
夏野 私は個人的には、こんな未来をイメージしているんです。パソコンにログインする際、表情が疲れていると認識したら、画面を目に優しい明るさに変える、あるいは文字を大きくしてあげる。学校や塾などに通う子どもたちの健康状態のチェックにも、とても有効だと思います。
 マーケティングにも使えますよね。行きつけのレストランを訪れた際、好みだったメニューの一覧が店側に表示される。同時に、その日の体調も確認することで、ベストな料理の提供が可能になります。
水野 店に入っただけでそれまでの購買履歴はもちろん、その人の状況までわかるようなテクノロジーに発展していくでしょう。
 つまり欲しいと思う商品やサービスを店員さんに告げることなく、自動で提供される未来です。しかも、もしかしたら、自分でも気づかないような体内の状態をもとに最適な商品・サービスを提供できるようにだって、なるかもしれません。
夏野 別の観点で言えば、せっかくこんな素晴らしい技術があるのに、僕が強く言いたのは、なぜ日本で普及が進んでいないのか、ということ。
 政界・財界問わず、日本独自のストラクチャーがその一因であることは理解するとしても、そこの壁を打破して、バイオメトリクスがパスポートのような国民的インフラになるよう、がんばってもらいたい。そうでないと、冒頭で述べたようにこの先困る人が増えることは明白だからです。
 こうした大きなムーブメントを起こすのは、ベンチャーでは無理です。実績と歴史、ブランドがあるNECにリードしてもらい、日本のテクノロジーを世界に示してもらえればと思います。
(取材・編集:木村剛士、構成:杉山忠義、撮影:竹井俊晴、デザイン:砂田優花)