14年前、誰が「自己責任論」を言い始めたのか?
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14年前に「自己責任論」が言われるようになって以来、ずっと強い違和感を感じ続けていた。なので、安田さん帰国のこのタイミングで少なからず「『自己責任論』は馬鹿馬鹿しい、問題とするに当たらない」という声が見られるようになったのは、個人的にはとても嬉しいことだ。
(なお「自己責任論」が馬鹿げたものであることは14年間なにも変わっていないが、それが日本のネットで問題とされてきた事実は変わらない。湯川さん後藤さんがISISに殺害された痛ましい事件の時でさえ「自己責任論」はあった)
14年前の「自己責任論」には現在と違って左右対立的な政治イデオロギー色は薄かった印象があるし、現在のように断片的な印象等から安田さんを韓国人だと主張するようないわゆる「在日認定」みたいなネトウヨ的振る舞いも目立つものではなかった。
どっちかっていうと単に「他人様に迷惑をかけるな」的な日本社会あるある圧のストレートな発露だった印象があったんだけど、こうしてプチ鹿島さんの振り返り記事を読むと、小泉内閣時代の小池百合子の発言が「自己責任論」の皮切りであり、政治家がわりあい「自己責任論」の流布に積極的に関わっていたということが分かる。
現在はむしろ与党政治家の側から「自己責任論」が言われることは少なくて声高に叫ぶのは市井のネット民の方なのだけど、そうした小池百合子的スタンスがネット民の中に内面化されていったのがこの14年ということなのかもしれない。
14年かけて「自己責任論」が折り返しを迎えているのだとすると、それは何が動機なのだろうか?というのが今興味深いところだ。個人的には、それは一口に言って「他人様に迷惑をかける、ということが積極的に必要な場合もある」といった考え方が徐々に浸透してきた、言わば「公共性」についての考え方が変容してきたためなのではないかと考えている。
必ずしも公共性というものが政府や行政セクターの示した方向の通りでなければならないことはないし、交通機関の車内など社会における公共空間の振る舞い方もわりあい繰り返し議論され、再検討されるべき部分があると認識されてきていると思う(主に、小さな子供とお母さんへの振る舞い方などだ)。こうした公共の考え方の変容が「自己責任論」のあり方にも変化を与えているのではと今のところ思っている。この辺は少しじっくり考えてみたい。