【激論】日本のデザイン政策は20世紀で止まっている
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20世紀初めにグロピウスらが、「形態は機能に従う」ということを言い出してから、デザインは明確に機能を前提にするようになっていきました。機能というのは性能のことではありません。機能というのは、むしろ目的であり、この製品に社会でこういう役割を持たせたい、この建築、この都市、この組織に社会や国家においてこういう役割を持たせたい、という構想として理解されるべきです。ル・コルビュジェたちが「機能的都市」ということを言い出した時、それは、産業や行政に奉仕したり、テクノロジーの性能を最大限に発揮させる都市、という意味ではなく、居住や労働、余暇において人間が輝かしい生活を持つことができるようにする、という目的を実現できる都市、という意味でした。
機能=目的がデザインを決定するようになった時、明確なな機能=目的を持たされることなく開発された製品は、社会において十分な役割を果たせなかったり、需要がなくなったりします。日本企業の製品は、この技術があるか、こういう性能を盛り込むことができるから開発した、という面が強く、日本社会(あるいは輸出先の社会)においてどういう役割を持たせるのか、というデザインが十分でないものが多いようにも思えます。
国家としてデザインを主導する、あるいは統制する、ということは20世紀に盛んになりました。特にソ連や中国のような計画経済の社会で協力でした。製品も、建築も、社会的な役割に基づいて機能を持つべきという考え方が広まったため、機能=目的を主導するのは国家である、という考え方が台頭しました。ソ連や中国の国家主導のデザインは世界的な注目を集めましたが、社会の実状や技術との調整が欠如した理念倒れのものが多く、失敗例が多くありました。
現在、政府によるデザイン政策、といっても、ソ連や中国のような国家がデザインの原理原則となる思想を用意する、といったものではありえないでしょう。そうではなくて、各部署でのデザイン・シンキングが可能となる組織のあり方や政府と民間の連携のあり方を政府が実現するとか、教育をサポートする、といったことでしょう。デザインと呼ばず設計と呼ぶ方がいいと言うのは賛成です。これは印象の問題ですけど、誤解は少ないと思います。ビジネスの設計。体験の設計。ユーザーインターフェースの設計。
デザイナーの多様性の話が出ているけど、これがポイントに思う。デザインの機能・対象が全方位になるなかで、それぞれの専門家を集めること。それからその多様な専門家たちをビジョンやミッション、ストーリーといったもので、ゆるっと包み込むこと(インクルージョン)が必要と考えている。