「超監視社会」に求められる議論の作法とは
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注目のコメント
①難しい言葉を使って煙に巻かない
②おっさんみたいに人の話をさえぎらずによく聞く
③全否定をせずに違いを指摘して、建設的な議論をする
「人の話をよく聞く」というのはフツーのマナーでなく、もはや能力なのでしょうか。
傾聴に特化したカフェができたら流行りそう!結論に至るまでの経緯がよく分かりませんでしたが、恐らく連載で説明してくれます。
面白い点は、日本で「プライバシーなき時代」や「透明な時代」が最近、議論になっているよう(もしかしてNPだけ?)ですが、欧米はもう、この議論が終わって「透明な時代」という概念は批判され、フェイスブック事件後は更に批判され、これから我々のプライバシーを取り戻すためはどうすればよいかという議論に移りました。
もちろん、あんな難しい議論を一行でまとめて単純化したい気はありませんが、プライバシーなき透明な時代を最も称賛する方(エリック・シュミット氏、ザッカーバーグ氏…)はどれけ自分のプライバシーを守ろうとしているかのを知っていれば、ただの「do as I say, not as I do 」ってことですね。筆者のいう「超監視社会」が起きているのは事実でしょう。多くの人が誰かのネットの書き込みやツイッターなどのSNSを通じてその発言内容を目にして、反論や批判、同意を書き込んだりしていますから。
ただ人が議論する場は、様々なケースがあるのではないでしょうか?
誰かのネット上での単なる独り言や、感想に、絡んで来るのまで議論と呼ぶなら「議論の作法」の対象としては広すぎる。
その様な場合の「議論」の作法を言うなら、寛容よりも放置ではないか? あるいはそもそも書き込みも。コメントもしないでいる、或いは誰かの書き込みを見ても脳内で勝手にコメントするに止めるのが作法の様に思えます。
建設的に議論をする場だと、各々が目的意識を持っているからルールが有効に働く。よってこれこそ「作法」と言ってもいいと思います。
つまりみんなが議論をしたいと思っているなら作法を用意。そもそも議論の場でないなら無視と放置が広義に作法という事だと思います。
ところで、相変わらず「おっさん」と言うキーワードに引っかかっているコメントチラホラ。そんなに気になってしまう原因を議論してはどうでしょうか? 議論の作法をもってして。