庄内藩が新政府相手に「勝ち続けられた」組織の秘密
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補足説明として、庄内藩の戦いと酒井玄蕃の活躍を記しておきます。
戦術の勉強になります。
庄内藩主酒井家に連なる酒井吉之丞家に生まれた玄蕃は、戊辰戦争の始まった慶応四年には二十七歳だった。
ところが玄蕃は、天才と呼ぶにふさわしい軍事的才能を秘めていた。
新政府軍は諸藩軍の連合体なので、それぞれ離れた場所に陣所を設けることが多い。玄蕃はそこを突き、まず装備が旧式で弱い敵を叩き、薩長両藩などの強敵が慌てて駆け付けてくれば兵を引き、敵が深追いしてくるのを待ち、有利な地形に誘い込んで包囲殲滅するという戦法を取った。
まさに敵の弱みを突き、地の利を生かしたセオリー通りの戦術なのだが、これを計画通りに実行し、成功させるのは容易でない。
さらに玄蕃は装備が旧式の新庄・秋田両藩を叩き、「庄内藩強し」を敵に印象付け、それを抑止力にしようと思っていた。
七月十三日、新庄藩軍を破った庄内藩軍は翌日、新庄城攻撃に移った。玄蕃は迂回部隊を率い、敵が正面軍に気を取られている隙に、背後から襲い掛かって落城に追い込んだ。羽州街道を北上した庄内藩軍は、立ちはだかる秋田藩軍の防衛線を次々と突破し、八月十一日、秋田藩の本拠・横手城を攻略した。この時も、搦手攻撃隊を率いた玄蕃の活躍は傑出していた。
庄内藩軍はさらに深く攻め入り、九月十一日、鎮撫総督府討庄軍の本営がある神宮寺を攻撃する。
この頃になると、敵には戦慣れした西国諸藩の補充部隊が多く加わってきており、さすがの玄蕃も苦戦を強いられる。だが、そこは玄蕃である。この戦いにも何とか勝利を収めた。
だが同盟軍の情勢は悪化の一途をたどっていた。玄蕃は「領国を守りつつ、有利な和睦条件を引き出すしかない」と決意し、庄内藩領への撤退に移る。そのためには最後の一戦を行い、敵に追撃をあきらめさせねばならない。
それが、九月十五日から十七日にわたって行われた刈和野(かりわの)の戦いである。この戦いで秋田藩軍を中心とした新政府軍を破り、刈和野を占領した庄内藩軍は、凱歌を揚げながら庄内に帰還した。
しかし藩主の酒井忠篤は、すでに十六日に降伏を決めており、帰還してきた将兵の労をねぎらった後、藩軍を解散させ、二十七日、本拠の鶴ヶ岡城を新政府軍に明け渡す。これで玄蕃の戦いは終わった。
(拙著『幕末雄藩列伝』より抜粋)読み入ってしまった.庄内藩と比較されている会津藩に関する違和感は大河ドラマ「八重の桜」で感じていた.会津を守ると言いながら,その実,殿様を守っているだけ.これって太平洋戦争の沖縄戦における日本軍の理屈と同じか,と.
庄内藩でもっとも財力を持っていたのは本間家です。
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」
https://yukarino.jp/articles/0355609