AI主義の胚胎──テクノロジーと思想を区別せよ

2018/6/14

あえて「哲学」で論じてみる

AIについて書かれた本が毎日のように出版される。AIの名を冠しただけのブーム便乗本も含めて。あるいはWEB上のコラムやエッセーは、もっと頻繁に更新されている。もちろんこのコラムもそのひとつになる。
私も可能な限り多くの見解に目を通してきたが、人間の情報処理能力には限界があることをつくづく感じさせられた。AIはそんなことでは困らないのだろうが。
そこで私はAIを論じるにあたり、あえて人間的なやり方を貫きたい。大昔から人間が使ってきた「哲学」という方法だ。
そうすると急に情報の量が問題ではなくなる。哲学は情報処理ではないからだ。心の中にあるものを素直に記述していけばよい。
当然のことだが、情報が不要だといっているのではなくて、その多寡は問題ではないということだ。
(写真:adrian825/iStock)
ディープラーニングにせよクラウドベースのAIネットにせよ、今のところAIにとっては情報の多寡こそが鍵を握っているようだが。
いったん目を閉じてみよう。いったい今何が起こっているのか。
AIブームが巻き起こっているのは間違いない。よく耳にするのはこういう話だ。
AI資本主義が始まったとか、AIで社会主義や共産主義が実現するとか、シンギュラリティが実現してAIが人間を支配するだとか、その逆でシンギュラリティのおかげで人間がもっと幸福になるとか……。

AI主義、その最大の原因とは

いずれにしても多くの人たちがAIの発展を不可避とし、かつそれを望んでいるのはたしかなようである。つまり今起こっているのは、ひと言でいうと「AI主義(Artificial Inteligencism)」とも呼ぶべき思想の胚胎にほかならない。
普通、そうした新しい思想には主唱者がいる。AIに関してもレイ・カーツワイルをはじめ、何人かの名前を挙げることができるかもしれないが、人によって立場が異なるので、それは正確ではないだろう。むしろ世界中で集合知的にAI主義が形成されつつあるのだ。
では、AI主義は何を目指すのか? 
それはAIが主義になっているその最大の原因に目を向ければわかるだろう。AIがこれだけ騒ぎ立てられるのは、ディープラーニングの技術とビッグデータの活用により、人間の脳機能を再現し、かつそれを超える可能性が見えてきたからだ。
いわば、人類は初めて人間を超えるテクノロジーを手に入れる可能性がある。その「興奮」が、AI主義への熱狂を加速している。

哲学者とは無責任な存在である

先ほど多くの人がAIの発展を望んでいると書いた。全員ではない。現にAIについて否定的なことを書く人もいる。私もそのひとりだ。
ただ、AIが主義である以上、そうみなす以上、反対者がいないと危険なことになる。全体主義と同じで。すでにそういう風潮はある。
神学論争のような不毛な議論に巻き込まれたくないので、先に誤解を解いておきたい。テクノロジーとしてのAIに関しては、なんら異議を述べる必要はないだろう。
大いに発展を期待する。他のテクノロジーと同じように、リスクをきちんと考えて実装していかないといけないというだけのことだ。
しかし、思想としてのAIには異議を唱えなければならない。
公共哲学の視点から、はたしてそれが社会にとっていいことなのか、問いを投げかけなければならないのだ。AIというテクノロジーが、人間の興奮のせいで大事故を引き起こしてしまうことのないように。
そんなことは起こるはずない? 
証拠を示せ? 
それは哲学者にいわれても困る。哲学者とは“嫌な問いを投げかけるだけの無責任な存在”であり、その無責任さこそが哲学の有用性なのだから。
*本連載は毎週木曜日に掲載予定です。
(執筆:小川仁志 編集:奈良岡崇子 バナー写真:adrian825/iStock)