現代の日本に息づく、新時代のパイオニアスピリット

2018/5/24
5月10日、六本木でカルティエのイベント「Santos de Cartier -living for the thrill-」が開催された。時代の先駆者であった飛行家アルベルト・サントス=デュモンへのオマージュでもあるイベントには、彼のパイオニアスピリットを今に受け継ぐ各界のイノベーター=「サントスマン」が集い、互いの熱意を共有した。
この夜、会場には“メイド・イン・ジャパン”の工場直結ファッションブランド「ファクトリエ」代表の山田敏夫氏の姿があった──。
カルティエの時計「サントス」が登場したのは、1904年のこと。第1次世界大戦前、あらゆる文化が実り、繁栄を遂げたベルエポックの時代である。
パリのレストラン「マキシム」は各界の文化人が集う社交場と化し、飛行家サントス=デュモンとカルティエの3代目であるルイ・カルティエもここで親交を深めた。
そんな2人の化学反応から誕生した「サントス」の物語をヒントに、サロンの空気を現代的に再現したのが今回のイベントである。
Takramがこの日のために用意したビデオインスタレーション。サントス=デュモンが飛行を成功させたパリの街に思いを馳せ、そこから飛び立つ現代の飛行機の航路をマッピング。飛行家たちの言葉を重ねた。
六本木の夜景をサントスが飛行したパリの空に見立てた会場は、各界のパイオニア、イノベーターである「サントスマン(Santos Man)」にとっての刺激的な出会いの場となった。

ファッション界の掟を覆す未来への挑戦

懐中時計が主流の時代に誕生した腕時計「サントス」は、当時では斬新なクリエイションとして、飛行家サントス=デュモンの人物像と共に、新時代を切り開く“パイオニアの証し”として伝えられてきた。
ファクトリエ代表の山田敏夫氏もまた、現代日本におけるファッション界のパイオニアと呼ばれる一人だ。
日本では初となる工場直結ファッションブランド「ファクトリエ」を2012年に創設し、アパレルブランドが主となり工場が従となるそれまでの体制とは逆をいく発想で、作り手の名を冠した服を展開。高い技術を持った“メイド・イン・ジャパン”を世界に発信するべく邁進してきた、まさに21世紀の「サントスマン」である。
山田氏が「ファクトリエ」をはじめるきっかけとなったのが、フランスで働いていた当時、同僚に言われた「日本にはブランドがない」という一言だ。
実家が熊本の婦人服店であり、幼い頃から“上質な日本製”に触れてきた山田氏は、アパレルブランドの海外生産が増え、下請けが主だった日本の工場・工房の優れた技術が衰えていく現状を憂慮し、工場の名をあえて表に出す本質的なものづくりに挑戦する。
「これまで工場の情報をオープンにすること自体がファッション業界ではタブーでしたし、日本は流通構造が非常に複雑で、決して作り手の現場を明かすことがない。理想と現実の、いわゆる理想の部分だけを見せていたんですよね。
僕が目指しているのは、その現実の部分をきちんと明かすこと。工場の名前や写真、住所などのすべてを公開するのはもちろん、製造原価についても工場が決める『希望工場価格』を徹底しているんです」(山田氏)

行動力で自分の人生を変えてきた

今回のイベントでは、偶然のすてきな出会いもあったという。
「6年前、ある雑誌の編集長に手紙を出したんです。今回のイベントで、その方に初めてお会いすることができました。こういった出会いを創出するのが、まさにサロンの役割ですよね。
それをカルティエが主催するのは意外かもしれませんが、サントスとルイのストーリーを知ると、もともとパイオニアスピリットのある先進的なブランドなのだということがわかる。長い歴史を経て、その精神が息づいているのはすごいことだと思います。
カンヌクリエイティブライオン金賞の受賞歴も持つ工学博士・徳井直生氏によるパフォーマンス「AI DJ」。徳井氏の選曲に合わせてAIが曲を選び、ピッチ合わせまで行うという近未来的なパフォーマンスに会場も沸いた。
僕は、つながりたいと思う人には手紙を出すんです。今お付き合いのある『とらや』の黒川光博社長や放送作家の小山薫堂さんも、最初は手紙がきっかけ。その編集長からもお返事をいただいて、自分の視野がぐっと広がったのを覚えています」
返信に書かれていたのは、物事を行うときには“自分の力”が何よりも重要になる、ということ。やはり何をするにもコツコツ努力することが必要だということを改めて知った、と山田氏は当時を振り返る。
「結局、楽な道はないんです。最短でゴールに行けたとしても、どこかに落とし穴があったり。自分の足で地道に努力すること、日々の積み重ねが必要だということですよね」
パリの空を舞台にしたビデオゲームも。従来の最新コレクションのローンチイベントにはない遊び心と、テクノロジーや未来を感じさせる演出に、訪れたサントスマンたちの会話も弾む。
現在、ファクトリエは55の工場と提携しているが、これまでに訪れた工場の数はなんと600以上。今でも一年の半分は地方出張する日々を送るが、創業当初は夜行バスで行っても門前払いを受けて、何も収穫がなく、失意のまま夜行バスで帰ることもあったという。
時にくじけそうになる経験の中で、モチベーションを高めるために掲げてきたのが、“行動力”である。
「人間が自分の意思で唯一コントロールできることって、“行動”しかないと思います。たとえば起業してすぐのころ、トランクにシャツを詰め込んで一人で行商していたときに、渋谷の喫煙所でスーツを着た集団を見かけました。
本来そこで僕がやるべきだったのは、一人でも多くの人に良い品を知ってもらうため、彼らに語りかけること。でも、結果的にはできなかった。家に帰ってから、その一歩が踏み出せなかったことをとても後悔しました」
その理由は恥ずかしさなのか、見栄なのか、どうせ買ってくれないという諦めなのか──失敗を客観視して見えてきたのは、たとえ結果がわからずとも、自分自身が納得する行動をとることの大切さだ。
「限界を自分で作ることはしてはならない。会いたい人には手紙を書き、どんな場所でも訪ねて行く。行動を起こすことによって、人生が変わっていくのがとても気持ちいいんです」

心を育てたからこそ得られたチャンス

ファクトリエの創設にあたっては、「“21世紀”という時代も追い風になった」と分析する。
「工場がこんなにつらい状況でなければ、僕みたいな若輩者を相手にしてくれなかったと今でも思うんです。また、インターネットが普及したことも非常に大きい。
日本のものづくりにどんなに深い想いを持っていても、人とつながることができなければ単なる夢想家で終わります。今は、SNSで同じ志を持つ方々とつながれて、広告が出せず、立地に恵まれなくても、ビジネスができる。それはやはり時代の恩恵でしょう」
一流の技術で作られた服で手に取る人々を豊かな気持ちにする──そんな山田氏の理想が形となってきた現在、技術の進化と共に決して忘れてはならないのが“心”だという。
「僕は“心技一体”という考え方をすごく大切にしています。技術が進化すればするほど、心がいらないように思われがちですが、本当は心の器も広く、深くしていかなければならない。
会社の新卒にも言っているのですが、日々全力を出して、今日は全力を出すことができたかどうかだけを考えなさい、と。小手先ではなく心を育てたからこそ、工場の人々とつながることができたと思っているからです」

料理人との友情から生まれた新素材

1904年に時計「サントス」が誕生したのは、先にも述べたように、サントス=デュモンとルイ・カルティエの出会いから。
「空を飛ぶ間も時刻を確認したいが、懐中時計を取り出すことが困難だ」というサントスの悩みを、その時代にはなかった「実用的腕時計」という形でルイが解決したのだ。
人との交流からまるで化学反応のように新しいアイデアが生まれた経験は、山田氏にもある。それが写真のホワイトジーンズだ。この生地のアイデアは、パリのレストラン「PAGES(パージュ)」のオーナーシェフである手島竜司氏からヒントを得た。
「彼は熊本の同郷で、知り合ってすぐに意気投合しました。仕事のスタイルが自分と重なる部分も多くて、話していていつも刺激をくれます。
このパンツの素材は『食品をこぼしても汚れないコックコートができたらいいよね』という何げない会話がきっかけで生まれました。赤ワインをこぼしてもするっと落ちてしまうんですよ」
生地には汚れを防ぐフッ素加工が施されている。
そんな逸話に加えて、山田氏がサントス=デュモンに共感した点がもうひとつある。
1898年に初めて気球に乗ったサントスは、1901年には飛行船でエッフェル塔を周回。1906年に「14-bis」でヨーロッパ初の飛行公式記録を樹立し、1907年には今に伝わる名機「ドゥモワゼル」を開発する。
その「ドゥモワゼル」の写真を目にしたときに、サントスの秘めた“使命感”を感じた。
「飛行機の発明によって大航海時代が終わり、世界がより小さくなり、国の距離感や時間そのものに対する概念までもが変わっていく──
現代とは違う素朴な飛行機の姿に、サントスが続けてきたであろう長い努力の跡と、未来を見据えた彼の想いをのぞくことができました。地道な努力を続けられたのは、単なる夢ではなく、世の中を変えるための使命感があったからではないか、と。
僕にも、1、2回着て捨てられてしまう服ではなく、愛着を持って長く着られるメイド・イン・ジャパンの服で世界を夢中にさせるという使命感がある。
“デザイン”“ブランド”“価格”という3つの判断軸に“誰が・どこで作ったか”という4つ目の基準を加えて、3つの判断軸で売り上げを上げていた世界を変えたいんです。
いつか、生産地・製作者という価値基準が業界の矛盾じゃなくなったとき、世界はより良くなる。それがすべての原動力になっています」
(執筆:野上亜紀 編集:大高志帆 撮影:片桐圭、佐々木信行 デザイン:九喜洋介)