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注目のコメント
貨幣が発明されたのは、広域の経済活動を可能にするという、利便性のためであったと思われますが、しばらくしてもう一つの効能をもつことが明らかになりました。貨幣は富の蓄積を容易にし、加速する、ということです。貨幣が爆発的に普及した古代文明、とりわけ地中海世界と春秋戦国時代の中国では、富の蓄積、もしくは独占が劇薬的な変化を引き起こしました。
地中海世界で交易を独占したフェニキア人の商業共和国カルタゴが覇権に手をかけ、ローマ共和国と衝突しました。中国では、列国の交流と統合が加速され、やがて秦の宰相、呂不韋というような怪物的な大商人が登場し、秦による統一中華を可能にしました。
やがて中国やヨーロッパ、あるいはイスラーム世界では、貨幣制度のデザイン、すなわちそもそも何をもって貨幣とするか、誰が貨幣の手綱を握るのか(鋳造)、で権力の在りかが変わってくる、ということが理解されました。貨幣には金が金をさらに呼び込む、という性質があります。放置しておけば、富を蓄積し独占する巨大な権力が現れます。
中世ヨーロッパでは、教会が貨幣を蓄積することに最も長けていましたが、一元的な管理はできませんでした。利子によって貨幣を蓄積する役割はユダヤ人に委ねられ、ユダヤ人が特殊な地位をもつことになりました。やがてドイツと南米の銀を背景にしてハプスブルク家が台頭しましたが、銀を貨幣としてコントロールすることには成功せず、覇権を維持できませんでした。
中国の歴代王朝は、貨幣による富の蓄積を警戒し、銀を本位とするとともに、同時に塩の流通を掌握することで塩を富の本位としました。中国という文明は、貨幣のコントロールによる支配には長けていない、あるいは好んでいないところがあります。
日本は、平清盛の頃の宋銭から織田信長の頃の永楽銭に至るまで、中国から銅銭を輸入することで、貨幣を流通させました。日本の政府は貨幣を定義し鋳造することで国にあり方をデザインすることはせず、むしろ中国から銅銭を輸入できることが権力の源泉であるという時代が5百年近く続きました。結果的に、貨幣の流通の手綱を握るのは寺社勢力であるということになりました。
日本国内の政府が金と銀を本位とする貨幣を鋳造し、流通をコントロールしたのが江戸時代です。こうなると寺社勢力はその権力を急速に失い、幕府と商人たちが実質的な権力を分かつようになりました。連載第三弾、2日目の今日は金融の起源と展望です。
複利計算については何度かこちらでもご紹介しましたが、今回は金利について少し深く掘り下げてより長い目で計算のお話をしています。前回、村落が納税を回避するために帰属や寺社(荘園領主)に口利きを依頼して、代わりに貢物をする(代替の納税、と言えるだろう)形が発生したという話があった。
お金が貯まる場所は、その運用と再分配(一種不満を抑えるため)が次に来るのは歴史の必然と、本記事を読んで感じる。あとはお寺→(低金利)→土倉酒屋→(高金利)→庶民というのも、Tierごとのリスク許容度の違いの仕組みとしても興味深い。
記事にも一部あるように、金融は時間含めたリスクとリターンの理論。本記事を読んでいて気になったのが、貸付期間が当時どれくらいだったのかという点。リスクが高い庶民への貸付期間が短かったりしたのだろうか?
あとは、寺社は寄付=返済する必要がないお金を使って、貸付をしている。自己資本の運用ともとらえられるし、貸付という期限付きのお金と、自己資本という期限なしのお金の性質の違いから利鞘を生む行為ともとらえることができる。
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