リクルートからJリーグへ。「改革者」村井チェアマンの半生

2018/2/10

門外漢のチェアマン

Jリーグの第5代チェアマンに就任してから、4年ほどになります。
私は、サッカーは大好きではありますが、サッカー界で育った人間ではありません。初めてサッカー界の外からチェアマンの職に就いた、いわば門外漢です。

学級委員より体育委員

学級委員や級長をやるよりは、体育委員をやるような子どもでした。駆けずり回って体を動かしているのが好き。
最初は野球です。ジャイアンツのユニフォームが欲しかったけれど、うちでは買えない。
そこで母に頼んで、白いトレパンとシャツに黒とオレンジ色の毛糸を使って、巨人軍みたいなラインを付けてもらって遊んでいました。

「赤き血のイレブン」に夢中

小学校4年の終わりに、浦和南高校をモデルにした「赤き血のイレブン」というサッカー漫画が、漫画週刊誌「少年キング」に連載されて、食い入るように読んでいましたね。
主人公の玉井真吾がサブマリンシュートを打つシーンなどを見ながら、いつか浦和でサッカーをやりたいと思うようになっていきました。

浦和高校で3年までサッカー一色

浦和高校は進学校だったので、高校3年の夏を過ぎるとほとんど部活はやらなくなって、皆受験モードに入るんです。
けれどサッカー部は、冬の全国高校選手権大会の県予選が続く高校3年の11月ぐらいまで、ずっとサッカー一色でした。
私と同学年のサッカー部の仲間は、私を含め、ほぼ全員が浪人しましたね。

彼女を追いかけて早稲田大へ

一浪した後、大学は早稲田大学法学部に進学しました。早稲田と慶応、両方受かっていたのですが、彼女が、先に現役で日本女子大学に進学していたので、日本女子大の隣にある早稲田を迷わず選びました。
今でいえば私はストーカーのようなものでしたね。彼女のことをずっと追い回していましたから。

早稲田精神昂揚会、中国に行く

早稲田精神昂揚会の仲間が、中国を横断しようと言い出しました。
70年代後半の中国は、いわゆる文化大革命の最後の頃です。
中国にはまだ改革開放以来、外国人が入ってない農村があると聞いて、私たちはもう居ても立ってもいられず、仲間8人で中国に向けて旅立ちました。

銀行を蹴ってリクルートに入社

銀行の内定を蹴ってリクルートを選ぶというのは、周りから見るとあり得ない選択だったようです。
リクルートの面接が粋だったんです。
「もし村井さんが本当にリクルートに入りたいのだったら、24時間、時間をあげるから、明日までに私たちが内定を出せる友だちを1人連れてきてください」

劣等感でつぶれかけた新入社員

同期を見て「すげえやつらばかりだ」と気後れしたのに加え、自分の成績もまったく上がらない。
私の社会人生活は、劣等感に押しつぶされそうな日々で始まりました。

アポ取り大会で大失敗

リクルートの伝統だった新人研修「アポ取り大会」で大失敗をしでかしました。
担当エリアにある企業の社長に端から電話をし、「貴社の採用のお手伝いをさせていただきたく存じます。社長はいらっしゃいますか」と言って、社長と話をしたり、社長に会うアポを取っていくものです。
けれど私は、社長に電話して、直接、話すことがとにかく苦痛で仕方がなかった。

リクルート事件勃発

それから営業に目覚めました。
営業は楽しい、お金を頂きながらこんなに多くの人から学べるのは何よりうれしいと思い、営業でずっと生きていくつもりでした。
ところが、リクルート事件が起きました。その直後に、人事部門への異動の内示を受けたんです。

長男の死

長男の死は、私にとってものすごく大きい出来事でした。

退職理由は半径10m以内にある

退職した理由の8割は、その従業員の「半径10m以内の人間関係」にあるのだと分かってきました。
リクルート事件のせいでもなければ、会社の将来展望が見えないからでもないんです。

リクルートエイブリック社長に

人材紹介会社のリクルートエイブリック(現リクルートキャリア)の社長に就任しました。44歳のときです。
仕事は、その人の人生でものすごく大きいウェートを占める。人材紹介会社の出番は、これからますます増えるだろうと考えました。

希望退職を募る、経営者失格

2006年4月に、リクルートエイブリックからリクルートエージェントへ社名を変えました。
社長就任以来、業績は順調に伸ばしていましたが、リーマン・ショックが起きると、局面が一変しました。
2009年に希望退職を募る決断を下します。あのときの責任は生涯背負いながら生きていかなければならないものだと思っています。

アジア市場へ進出

リクルートエージェントの社長を譲り、リクルートの香港法人であるRGF Hong Kongの社長に就きました。
アジア全域におけるリクルートの人材紹介ビジネスの基盤を創設することになったのです。
このときのアジアでの経験がなかったら、Jリーグのチェアマンは、とてもできなかったでしょう。

M&Aで重要なこと

M&A(企業の合併・買収)というのは、相手の財務状況や資産などを、デューデリジェンスと称して徹底的に調べ上げ、最高価格と最低価格の間のレンジでシビアな価格交渉、というイメージを思い浮かべがちです。
しかし、Bó Lèの買収で学んだことは、このイメージだけではないということでした。やはりトップ同士の信頼関係が重要なのです。

「Who is 村井?」

Jリーグチェアマンだった大東和美さんから「次のチェアマンをやってくれないか」と頼まれました。
クラブを経営した経験があるわけでもない。プロの監督や選手の経験もない。こういう未経験な人間に、果たしてチェアマンなんて大役ができるのか。
「Who is 村井?」「そいつは誰?」というのが周囲の反応でした。

Jリーグのたこつぼ構造を変革

私が最も重視しているのは、Jリーグの組織構造の変革です。
就任当時のJリーグは、公益社団法人日本プロサッカーリーグとそのリーグの運営などを支える6つの事業会社から出来上がっていました。
いわゆる「小さなたこつぼ」がいっぱいあって、笛吹けど踊らず、という構造だったんです。

経営者のレベルが将来を決める

経営者のレベルが、そのクラブの成長、ひいてはJリーグの将来を決める。
これだけ経営の難易度が高いJリーグのクラブに、本当の経営者がどれだけ流入してくるかが、Jリーグの将来を左右すると思っています。

PDMCAでいこう

的確な反射ができる体質をつくるには、ミスすることを恐れていてはいけない。
Jリーグで働く従業員の皆にも、PDMCAでいこうと言っています。

到達点はない

目標みたいなものはないんです。ここまで行ったらOKという発想は、自分で計画を立て、自分の中で到達点を定めるやり方です。
そうなると、計画外の領域は手出しをしなくなる。今の時代、それでは駄目だと思うんです。
(予告編構成:上田真緒、本編聞き手・構成:織田 篤、撮影:遠藤素子、バナーデザイン:今村 徹)
リクルートからJリーグへ
村井 満(日本プロサッカーリーグ チェアマン)
  1. リクルートからJリーグへ。「改革者」村井チェアマンの半生
  2. “新参者”Jリーグチェアマンの傾聴力と主張力
  3. じっとしていられない、スポーツ三昧の小学生
  4. 上とケンカばかり。負けず嫌いのひねくれ者
  5. 浦和高校3年までサッカーに熱中、2つの大病を患う
  6. ほとんどストーカー。彼女を追いかけて早稲田大学へ
  7. 早稲田昂揚会の仲間と中国横断600kmの大冒険
  8. 銀行の内定を蹴って、リクルート入社を決めた理由
  9. リクルート同期社員への劣等感につぶれそうな日々
  10. リクルートの伝統、新人研修「アポ取り大会」で大失敗
  11. リクルート事件勃発。倒産危機に人事から立ち向かう
  12. 雇用を保証するのではなく、雇用される能力を保証する
  13. 退職理由の8割は「半径10m以内の人間関係」にあり
  14. 部下が上司に本音を言える組織の「静脈」をつくる
  15. 経営者失格。リクルートエージェント、希望退職を募る
  16. リクルート、アジア市場へ進出。日本と違うスピード感
  17. ビジネスで相手の信頼を得る方法
  18. リクルートからJリーグチェアマン、なぜ引き受けたか
  19. 心に火をつけろ。組織の「たこつぼ構造」5段階で破壊
  20. スポーツは難易度が高いビジネスだ。経営人材、求む
  21. ミスを恐れず「PD“M”CA」でいこう
  22. 成功法則は不要。自分を信じて体当たり