【森本稀哲】順調な野球人生でなかったからこそ、得た学びがある

2017/11/25
北海道日本ハムファイターズ、横浜DeNAベイスターズ、そして埼玉西武ライオンズで活躍してきた元プロ野球選手の森本稀哲氏。「心を強くする習慣を身につけると、どんな逆境にだって負けない」と語る森本氏に、プロ野球選手時代のエピソード、そして「どんなに辛くてもポジティブになれる方法 」について聞いた。

元気の源はどこにある?

──森本さんの新著『気にしない。 どんな逆境にも負けない心を強くする習慣』は、野球を通して身につけた「つらい時でもポジティブになる方法」をつづった本ですが、世のビジネスマンにも通ずるメソッドが多数詰め込まれているように感じます。
森本 人生っていいことばかりではありません。僕自身も、これまでの36年間の人生で、どうしても前向きに捉えられなかったことがたくさんあります。結果としては、そうした体験から学び、何があっても前を向いて乗り越えることが大切だと気づけたことが大きいと思います。
森本稀哲(もりもと・ひちょり)
1981年1月31日生まれ。東京都出身。帝京高校の主将として第80回全国高校野球選手権大会に出場を果たし、1999年、ドラフト4位で日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)に入団。2006年から2008年まで3年連続ゴールデングラブ賞を受賞し、2007年、ベストナインに選ばれる。その後、2011年、横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)へ移籍。2014年、埼玉西武ライオンズへテスト入団。2015年9月、17年間にわたるプロ野球人生を終え、現役を引退。現在は野球解説やコメンテーターとしてのテレビ・ラジオ出演のほか、大学での講義や講演活動も行っている。
──NewsPicksにはこれまで、山本昌さんを始め複数の元プロ野球選手が登場していますが、皆さんに共通するのが、「プロになった瞬間、あまりのレベルの高さにすっかり自信をなくしてしまった」ということです。森本さんの場合はどうでしたか?
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僕もそうです。プロに入った瞬間に、「これはちょっとレベルが違うな」と感じました。当初は「1年目から1軍でレギュラー獲ってやる」と意気込んでいましたが、そんな自信は一瞬で消え去りました。スピードもキレもパワーも、想像していたよりもはるかに上で、これは落ち込みましたね。
──そこからどうやって気持ちを立て直したのでしょうか。
自分の勝負は今じゃなく、何年か先のことだと思い直したのです。そして、「じゃあ、それまでに必要なことをやるしかないな」と気持ちを切り替えました。具体的には体力作りに励んだり、スピードに慣れるトレーニングを積むなど、やるべきことは山ほどありました。
──大きな挫折感にはつながらなかった、と。
自分はドラフト下位指名の高卒だったので、ある程度現実を受け入れられたのかもしれません。もし、即戦力として期待されての入団であれば全く違ったと思います。それに1年目にケガをしたこともあり、すぐに結果を出さなければという焦りがなかったのは幸いでした。結果として、下地をしっかり作れたと思います。
──今回の本の中では、「1軍に上がれば最低保障年俸でベンチ入りするたびに7万円もらえるため、ミスをして2軍に落とされるよりも、1軍に身を置き続けることを重視した」というエピソードが印象的でした。やはり現実にもまれるうちに、自然と目標が小さくなってしまうのですか。
今にして思えば、小さなことを考えていましたよね(笑)。プロ野球の世界でレギュラーを獲るという意気込みで入ったはずなのに、ハイレベルな環境に埋もれてしまって本質を見失っていました。人間というのは弱い生き物だなと、改めて感じます。
──そうした環境に左右されないためには、どうすればいいでしょうか。
自分が本当にしたいこと、そして必ず成し遂げたいことを再認識して、強い信念を持つことに尽きると思います。
もっとも、それも経験の少ないうちは難しいです。僕の場合も、下位指名であることやケガを理由に、「そのうち何とかなるだろう」と、変な余裕を持ってしまった。だから、プロに入ってしばらくしてから、強い信念を持つことの大切さに気が付きました。

最後の壁を破った秘訣

──森本さんは1999年から2015年まで、17年間を現役選手として過ごしましたが、長くプロ野球の世界を見る中で、1軍で活躍する人と、ずっと2軍に甘んじる人との違いは、どのようなところに表れると感じますか?
プロ野球選手といっても、基本的に皆、最初は僕と同じようにレベルの高さに挫折してしまう選手ばかりです。
そこではい上がれる人というのは、自分が何を目指したいのか、強い気持ちで目標や目的を再確認できる人でしょう。「絶対にレギュラーになるんだ」とか、「先発ローテーションピッチャーになりたい」とか、ぶれずに思い続けられる選手は、絶対その方向に向かっていけると思います。
もちろん、うまくいかないことが多すぎると、何となく維持していた自信もなくなってしまいます。それでも目標がしっかりしている選手は、2軍にいても雰囲気がまったく違います。
──森本さんの心の支えとなったのは、どのような目標だったのでしょう。
やはり、レギュラーを獲るということです。「何番で打ちたい」などといったことより、まずはレギュラーを獲るという目標で入り、その後に「1番で打ちたい」とかいろいろ考えるようになりました。
ただ、2004年までは、せっかく1軍へ行っても思うような結果が出せなかったり、最後の壁を打ち破れないことが多々ありました。野球界を見渡してみても、一流選手になれるかどうかという最後の壁をぶち破れない選手が全体の8~9割を占めています。
ほんの1割くらいの選手がそれをぶち破れて、さらにその数%の選手が超一流と呼ばれるようになるわけです。イチロー選手や松井秀喜選手、大谷翔平選手などが該当します。
僕は入団して数年間、1軍で結果を残すことができませんでした。2軍で結果を出すところまではいけるんです。1軍でも、守備や代走では活躍できた。しかし打撃はなかなか向上せず、大事な最後の壁がクリアできず、苦しみました。
──とはいえ、2000年代後半には、日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)の中心選手になりました。最後の壁を突破できた理由は何だったのでしょうか。
これは今でもすごく感謝しているのですが、当時のトレイ・ヒルマン監督が自分のいいところを引き出してくれたことです。
ヒルマン監督は2003年から日本にやって来て、チームが低迷する中で、僕にずっと「とにかくお前はきれいなヒットを1本打つことよりも、自分のいいところを出せ」「お前のいいところは何だ? 相手ピッチャーに向かっていくところだろう。チーム引っ張っていくところだろう。ヒットはいらないから、それを体で示してくれ」と言い続けてくれました。
──そうした言葉に鼓舞されたことが、最終的にエネルギーにつながったわけですね。
そうですね。それまでは結果を出そうと意識し過ぎて、目先のヒット1本を取ることばかり考えていました。それが、「じゃあ思いっきりピッチャーに向かっていこう」ということに集中した瞬間、壁が破れました。
──実際に本書では、ヒルマン監督が常に「Cheer up!」と森本さんを励ましていたエピソードがつづられています。
「とにかく元気で、ハイエナジーで行け」と、そればかり言われていました。プロの世界なので、打てなければクビになる可能性だってあるわけですから、誰しも目先の結果を求めてしまうのはやむを得ないことですが、その点に関しては本当にヒルマン監督に感謝しています。

新庄剛志さんから学んだこと

──ヒルマン監督のエピソードのように、ジャンルを問わず人がブレークスルーを果たす時というのは、人との出会いが非常に大切なのだと実感させられます。森本さんの場合、新庄剛志選手についても、同様のことが言えそうですね。
そうですね。たとえば新庄さんに関して言えば、世間的に注目されやすいパフォーマンスやファンサービスもそうですが、僕は野球人としてのセルフイメージを大きくしてもらったことが忘れられません。
僕は当初、練習すればするほどうまくなると思い込んでいたのですが、そんな僕に新庄さんは、「バットを置きなさい」と言ったんです。「あれだけ練習しても打てねえんだったら、今のお前に必要なのは、バットを置いて頭を使うことじゃないのか」というわけです。
──興味深いエピソードですね。その言葉にはどのような意図が込められていたのでしょう。
これはきっと、「自分はどんな選手になりたいのか、頭を整理して一度見つめ直したほうが、結果につながるんじゃないか」と伝えたかったのだと思います。要は、頭でっかちになってしまってパフォーマンスに悪影響が出るのなら、もっと自信を持てる方向に切り替えるべきだ、ということでしょう。
たとえば、僕が三振してシュンとして戻ってくると、「お前、自分が監督だったらどういう選手を使いたい? 三振してシュンとして帰ってくる選手より、三振しても『次は打てますよ!』って堂々としている選手のほうが使いたいだろう?」と話してくれたのも新庄さんでした。
──つまり新庄さんからは、技術的な何かを教わったというより、姿勢や発想の部分で学ぶことが多かったと。
その通りだと思います。守備に関しては技術的なこともたくさん教わりましたけど、バッティングについてはメンタル面のアドバイスを多くいただきました。
──なるほど。ちなみに、新庄さんと森本さんの親密な関係はファンにとってもおなじみでしたが、仲良くなったきっかけは何だったのでしょうか。
それが、わからないんですよ(笑)。これは新庄さんに聞いても、「わかんねえな。何でかな」と言います。ひとつ挙げるとするなら、僕は新庄さんを大スターとして見るよりも、あくまで1人の先輩としてしか見ていなかったので、それが良かったのかもしれません。

横浜にいた3年間

──結果として、ヒルマン監督や新庄さんとの出会いにより、壁を打ち破ることができた森本さんですが、2011年に横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)に移籍した後は、思うような結果が出ずに苦しみます。そのときは、どのような思いを抱いていましたか。
横浜にいた3年間は、期待されて入団したものの、まったくヒットが打てませんでした。何をやってもうまくいかない時というのは、何を間違えているのか、自分ではなかなか気づくことができないものです。
結局、自分の中で出した結論は、「打つことも走ることも、試合するまでの準備をとにかく全力でやることしかない」というもの。ただ、ひたすらこれを徹底しました。
横浜の最後の年には、「もうこれでクビになるかもしれない。でも、自分はできることをすべてやったか? いや、やってない」と考え、福岡まで内川聖一選手(現福岡ソフトバンクホークス)に会いに行きました。
なぜなら、「今、最強の右バッターといえば、何年も3割打ち続けている内川選手だろう。その選手の話を聞かずして、やれることはすべてやったと言えるのか?」と考えたからです。
──強い決意が、それまでにない行動をもたらしたわけですね。
そうです。試合までの準備を全力でやろうと腹をくくったら、自然とそういう行動を取れるようになりました。少なくとも準備に全力を尽くしたと考えられれば、打率0割0分0厘で終わったとしても、その結果を受け入れることができます。実際、現役生活の最後の2年は埼玉西武ライオンズで過ごしましたが、まさにそんな状態でした。
──西武でプレーされていた頃は、森本さんもチーム内でベテランの立場であったと思います。若い選手に、そうした考え方やノウハウを伝えることもありましたか。
伝えていましたね。それが使命だとも思っていたので、普通なら言いにくいようなことでも、思い切って言ってました。たとえば、ある若手選手がチャンスで打てなかったことがありました。
その選手は次の回に守備に出ていく際に、ふてくされてダラダラと動いていたのですが、裏に呼んで「打てなかった悔しさはわかる。でも、毎回毎回チャンスで打てなかったら、毎回皆がお前をこうして待ってなきゃいけないのか。お前のための試合じゃないんだぞ」と叱責しました。
若いうちから、切り替えることの大切さや、1つの試合を皆で作っている意識を植え付けることは重要だと思います。そうでなければ、横柄な選手になってしまいますから。
──それも「やれることを全力で」という精神に通じていますね。
ふてくされたくなる気持ちはよくわかります。でも、そこで切り替えて走っていった方が、彼のためにもチームのためにもいいのは間違いないですからね。がっくりしながら守っていても、いい守備ができるわけではないですし。これは僕自身もそういう時期を経てきたからこそ、伝えていく意義があると考えていました。

野球人生を自己採点

──今振り返ってみて、ご自身の野球人生を自己採点とすると、何点ですか?
うーん、68点かな。
──微妙なラインですね。その理由は?
いや、高いほうじゃないですか、自己評価で68点って。レギュラーになるまでのくすぶっていた時期は減点対象ですし、レギュラーを獲ったあとに、2008年くらいからのちょっと浮かれていた時期も減点対象です。
それから、結果の出なかった横浜での3年間も、やっぱり大減点でしょう。最後の西武の2年間は、そこそこやったような気もしますけど、だから、トータルとして70点は行かないかなという気がします。
──逆に、評価ポイントは? 日本ハムではリーグ優勝も日本一も経験されていますが。
そうですね、リーグ優勝したり日本一になったり、あの強い時代にレギュラーでいられたことは、自分としてもかなり評価できると思っています。ただ、どうしても減点対象が多すぎます(笑)。
──今回本に書かれたテーマは、「逆境に負けない心」です。減点対象の時期を乗り越えて、日本一を経験するほどの野球人生を送ることができたのは、やはり心の強さに支えられた部分が大きいのではないでしょうか。
それは逆かもしれません。心が弱かった分、そこから学べたことが大きいでしょう。やはり、大切なのは学びです。
周囲を見れば、お手本も反面教師もゴロゴロいるわけですから、自分だったらどうするか、どうすればうまくいくか、常に考えながらすべて吸収しようとしたところが、僕の一番良かった点だと思います。
もし、もっと順調な野球人生を送っていたら、こうして本を書くことも、インタビューを受けることもなかったはずです。うまくいかない時期があったからこそ、学べたという思いは強いです。
──引退された今、この後の自分にどのような可能性があると考えていますか
野球選手としては区切りをつけましたが、野球を通して学んだことは今にすごく生きています。現在は新たな挑戦の真っ最中で、だからこそ新たな学びがたくさんあります。だから、可能性は無限でしょう。そして無限だからこそ、自分のできる範囲で、自分らしく、失敗を恐れずいろんなことにチャレンジしていきたいですね。
(取材:野村高文、上田裕、構成:友清哲、撮影:是枝右恭)