【三村明夫】75%の人員削減に着手。苦悩の中で出した答えは

2017/11/21

永久に答えの出ない問い

──ハーバード・ビジネススクールでMBAを取得し、帰国したのが1972年です。新たな経験をして帰国すると、社内の景色が変わって見えたのではないですか。
三村 私がアメリカに旅立った1970年に、富士製鐵は八幡製鐵と合併して新日本製鐵になりました。合併直後の2年間、会社にいなかったわけですから、留学から帰国すると、会社の半分以上が知らない人になっていました。
留学帰りだからといって社内で重宝がられる雰囲気も特にありませんでしたし、なんだか新しい会社に入った気分でした。
三村明夫(みむら・あきお)/新日鐵住金相談役名誉会長
1940年生まれ。群馬県出身。63年、東京大学経済学部卒業後、富士製鐵(現・新日鐵住金)入社。72年、米ハーバードビジネススクールにてMBA取得。93年取締役、97年常務などを経て、2003年4月、新日鐵の社長に就任。合理化や中国などの経済成長をうまく捉えて業績回復に寄与した。08年に同社会長、13年より新日鐵住金相談役名誉会長。同年、日本商工会議所・東京商工会議所会頭に就任。
ハーバードの授業では、実際に起こったビジネスのケースを用いて「自分が経営者だったらどうするか」を議論し、経営を疑似体験しました。
しかし、学びはあくまで架空の世界。私がそうして学んでいた間に、会社は合併の大混乱で、それぞれに悲喜こもごものストーリーがあったはずです。
海外への留学は、ふだん体験できない貴重な機会が得られるという見方が一般的ですが、私の場合はその時期が会社の合併と重なったので、シミュレーションで学ぶ留学と、会社に残って実際に合併の荒波を体験するのと、果たしてどちらがよかったのだろうか……これは、永久に答えの出ない問いです。
もちろん、留学は会社の推薦で選択の余地はありませんでしたし、どちらの道を歩んでも成長の糧になったとは思います。ただこの問いは今でも時々、ふと脳裏をよぎります。

プラザ合意後の円高が業績を直撃

そのようなこともあり、帰国後もしばらくは「自分は会社に貢献できているのだろうか」とおぼつかない心持ちでいました。
その後、徐々に昇進して役職が上がっていくのですが、下の方にいると組織の全体感がつかめないので、役職が上がるほど、「いい仕事をさせてもらっているな」と仕事を面白く感じました。
私のキャリアにはとくに記憶に残る出来事がいくつかあるのですが、最初は1985年のプラザ合意です。プラザ合意とは、行き過ぎたドル高を是正するために為替レートを調整する、主要5カ国(アメリカ、日本、イギリス、フランス、西ドイツ)の合意のことです。
これを機に、当時1ドル240円台だった為替相場が、またたく間に180円台、150円台となり、1987年末には120円台と、急速な円高が進みました。円高が進むということは、輸出で得られる円ベースでの手取り額がその分減少するということです。
自動車や造船など、新日鐵の鋼材を使うメーカーは製品を大量に輸出していました。この円高の衝撃で、まず彼らの輸出量そのものが減ります。そして当然、彼ら自身のコストを下げるために素材メーカーであるわれわれにも大幅な価格ダウンを要求してきます。
この2つは、新日鐵にとって大きな痛手でした。その当時われわれは3400万トンの生産能力がありましたが、円高の影響で2400万トンまで減らし、数千億円のコストダウンをせざるを得ませんでした。
そしてコストダウンの過半は、固定費ダウンで賄うことになりました。固定費はおもに設備費と人件費の2つ。私は、この二大合理化計画を事務局として策定することになったのです。

製鉄所のシンボルを止める

──具体的にどのように進めたのですか。
まず、設備費カットの一環として、いくつかの製鉄所の高炉を止めました。
高炉とは、鉄鉱石から鉄を取り出す、製鉄の第1段階です。高炉を休止するということは、コークス炉や転炉など、その前後工程の関連設備もあわせて休止するということを意味します。製鉄所のシンボルとも言える高炉を止めることは、会社にとって計り知れない衝撃が走ります。
岩手県の釜石製鉄所からは「高炉を止めないでくれ」と12万にも及ぶ嘆願書が来ました。しかし大変しのびなかったのですが、会社全体のことを考えると止めざるを得ませんでした。
設備を止めると必然的に人員が余りますから、次に実施したのは人員削減です。6万8000人いた従業員は、一連の合理化計画で最終的に1万7000人まで減ることになりました。実に75%もの削減です。それはとんでもない数でした。
当時の社会の風潮としては、一方的な解雇は許されず、会社が再就職(出向)先をあっせんするのが当然でしたが、それもまた簡単ではありませんでした。
われわれ事務局は「削減をこれだけやる」と指示を出す立場でしたが、もっとも大変だったのは、工場長や課長など、現場のトップたちでしょう。自分の部下の誰を残して誰を出すのかを決め、4分の3を配置転換させなければいけなかったのですから。
新日鐵の社員が1人減ることは、家族や協力会社の人員も含めその市や町の人口が5人減ることにつながると言われていました。そうなるとその自治体における不動産価格も下がります。
鉄鋼メーカーほどの規模となると、その合理化施策は自社だけでなく、街の活力にも関わります。そのため、配置転換してもらう社員もできるだけ引っ越さなくていいように苦心しました。
新入社員の採用を中断したり、配置転換した従業員の受け皿として新規事業の子会社を作ったりもしました。作業服を製作する会社や、花卉(かき)栽培、キャビアやウナギ、菜食主義者のための大豆肉……。もうなりふり構わず、ありとあらゆる分野に手を出しましたね。
しかしわれわれにとっては新規事業でも、それらを扱う会社はすでに世の中にたくさんあるわけですから、競争も厳しいものでした。
しかも、それらの業界の基準に合わせると、従業員の給料が新日鐵時代より下がる場合も多かったのですが、出向者も当社の制度で処遇していました。
結果として、出向者の労務費差額の負担を含め、会社は人員合理化のためにおよそ1兆円ものコストを負担することになりましたが、もともと保有していた株式、土地や建物などの資産を売却して、これに充てました。
結局、そのとき立ち上げた新規事業は、ほとんど失敗に終わりました。今でも残っているのは、エンジニアリング事業、化学事業、新素材事業、システムソリューション事業など、鉄事業で培った当社の強みを生かせた事業や、鉄事業とのシナジー効果があった事業だけです。

合理化にも聖域はあるべき

合理化計画を実行する際には、社内で「聖域なき合理化」が叫ばれていました。部門を問わず、どんなことも同じような比率でコストカットすべきだと。そうでないと、社内全体の意識を統一できないからです。
でも本音をいうと、私は本来聖域はあるべきだと思っています。
例えば交際費を削るのは当然ですが、研究開発費や修繕費など、鉄鋼メーカーの生命線である事業予算まで削るのは、会社にとって致命的です。これだけのコストカットをしてまで会社を守っているのに、製品の質に影響するようでは本末転倒です。
しかし実際は、研究開発費もほかの部門と同じようなカットをせざるを得ませんでした。
また、人員を75%削減したのも、結果的には行きすぎだったかもしれません。ただ、のちに住友金属と合併する際、さらなる人員削減をしなくて済んだのですから皮肉なものです。
この経験から、合理化を正しく進めるためには、自分たちにとって「聖域とは何か」をきちんと確認し、削るものと残すものを切り分けていくことが大切だと痛感しました。
私は合理化計画が完了した数年後の2003年に社長になりましたが、「あれでよかったのかな」という疑問が心の中に残っていたので、本来聖域とすべき部門の予算を元に戻しました。これをできたことで、私の中でもようやく一区切りがついたのです。
(構成:合楽仁美、撮影:竹井俊晴、デザイン:今村徹)
*続きは明日掲載します。