【新】鉄鋼業界の生き証人、三村明夫相談役が語る「あの決断」

2017/11/20
独自の視点と卓越した才能を持ち、さまざまな分野の最前線で活躍するトップランナーたちが、時代を切り取るテーマについて見解を述べる連載「イノベーターズ・トーク」。
第114回(全5回)は、新日鐵住金相談役名誉会長で日本商工会議所会頭の三村明夫氏が登場し、激動の半生を語る。
三村氏は言わずとしれた、財界の中心人物だ。1963年、新日鐵の前身である富士製鐵に入社し、当時では珍しくハーバード大学でMBAを取得したのち、要職を歴任。2003年には新日鐵の社長に就任し、業績が下降傾向にあった同社の立て直しに成功した。
そのキャリアに大きな影響を与えたのは、1985年のプラザ合意だ。ドル高是正による急速な円高を受け、社員の75%を削減するという痛みを伴う合理化計画を担当した三村氏は、社長就任後も、その教訓を胸に刻みながら会社経営を行ったという。
2013年には、全国の商工会議所の上部団体である日本商工会議所(日商)の会頭に就任。全国125万の中小企業を代表する立場として、政府に対して政策提言を行っている。
本連載では、三村氏が新日鐵時代でのキャリアの中で行なった、数々の決断を振り返る。また後半では、日商の会頭として日本の課題と今後の展望を語る。
時代の生き証人とも言える三村氏の半生、そしてその目に映る日本経済とはどのようなものか。

社会人は「至れり尽くせり」

──三村さんは1963(昭和38)年、東京大学経済学部から当時の富士製鐵に入社しました。そもそもなぜ、就職時に鉄鋼業界を選んだのですか。
三村 鉄鋼業界に特別なこだわりがあったわけではありません。当時の私は、父親がすでに他界して世の中を教えてくれる大人が身近にいなかったこともあり、まだ世間を知らない素朴な学生でした。
ただ、今になって思い返すと、大学で「鉄鋼概論」の授業を受けたことが、鉄鋼業界に進む大きなきっかけとなりました。その授業では日本鋼管(1912年創立の大手鉄鋼メーカー。現・JFEエンジニアリング)の偉い人が週に一度大学に来て、講義をしてくれました。
三村明夫(みむら・あきお)/新日鐵住金相談役名誉会長
1940年生まれ。群馬県出身。63年、東京大学経済学部卒業後、富士製鐵(現・新日鐵住金)入社。72年、米ハーバードビジネススクールにてMBA取得。93年取締役、97年常務などを経て、2003年4月、新日鐵の社長に就任。合理化や中国などの経済成長をうまく捉えて業績回復に寄与した。08年に同社会長、13年より新日鐵住金相談役名誉会長。同年、日本商工会議所・東京商工会議所会頭に就任。
その中で京浜製鉄所の工場見学があったのですが、鉄鋼会社としては学生をそこに連れて行ったら勝ちも同然です(笑)。
というのも、製鉄所で大きな厚い鋼材が真っ赤になって製造されているのを見ると、たいていの学生は「かっこいいなあ」と感激します。
これからいよいよ日本が高度経済成長を遂げようとする昭和30年代でしたから、純朴な学生だった私は、世の中の役に立ちたいという気持ちから、「鉄鋼業はいいな」と思ったんです。
当時、鉄鋼業界のトップは八幡製鐵で、富士製鐵は2番手でした。あえて富士製鐵の入社試験を受けたのは「2番のほうが、1番に負けまいとして活力があるだろう」と考えたからです。
私が富士製鐵に決めたと聞いて、ゼミの先生は「ばかだなあ。これからは自動車産業だから、相談してくれればそっちを推薦したのに」と言いました。当時、鉄鋼業界はすでに成熟産業で、今後伸びるのは自動車産業だと世間からは見られていたんですね。
でも私には、そんなことは気になりませんでした。むしろ社会人になって、生活苦から解放されることの方が嬉しかった。
私は大学入学前に父親を亡くしていたので、実家からの仕送りはゼロ。学費も生活費もアルバイトで工面していました。だから社会人になって、寮にも入れてもらえて給料も貰えることが「至れり尽くせり」だと思えました。
もう半世紀も前ですし、若手で大きな仕事を任されることはない時代でしたから、新入社員時代の具体的な仕事内容は覚えていません。ただ目の前の仕事に、粛々と取り組んでいたことだけを記憶しています。

留学先が決まらないまま渡米

──その後、30歳の頃に、社費でハーバード大学へ留学しました。
最初の配属は東京の本社でしたが、3年後に北海道の室蘭製鉄所に転勤になりました。そこで何年か働いていると、ある日上司から「本社で留学っていう制度が始まったらしいんだけど、おまえ英語の試験、受けてみろよ」と言われたんです。
私が「留学って何ですか」と聞いても「よくわからない」と(笑)。結局、上司も私も留学がどんなものがわからないまま、試験を受けることになりました。
英語の試験は難しく、「受からなくてもいいや」と思いましたが、結果は合格。アメリカに留学することになってしまいました。
室蘭にいては留学準備ができないということで、渡米半年前の1969年秋、本社に転勤になりました。でも受け入れ先の新部署は、私が留学することを知りませんでした。
私が事情を話すと「そりゃあ大変だ」と慌てながら通常の仕事を少なくしてくれました。何とものんびりした時代でしたね。
英語は、読み書きはできるものの、聞き取りや会話がまったくできなかったので、業務終了後の夕方から「日米会話学院」に通うように会社から言われました。ところが、学院への入学試験はヒアリングが全然できなくて不合格。半分の点数も取れませんでした。
不合格通知を受け取った人事部は「この人は、本当はできるんですから」と学院にお願いして入学させてもらいました(笑)。
そこで最も初級のクラスに入れてもらい、LとRの区別から徹底的に英語の基礎を学ばせてもらったのは有難かったですね。おかげで、3カ月が経つ頃には飛び級で上のクラスに編入することができました。
当時は、翌年の1970年に、私の所属する富士製鐵と八幡製鐵が合併することが発表されていました。そのため、当時担当していた仕事は合併準備の事務作業でした。
これまで富士製鐵には留学制度がなかったのですが、八幡にはありました。合併するというので富士からも初めての留学生が選ばれたんです。最終的に、八幡から2人、富士から2人の、合わせて4人が選ばれました。
寒い冬に根詰めて夜遅くまで勉強したので、途中で体調を崩しかけたりもしましたが、なんとか乗り切って春を迎えました。ただ、日本で学ぶ英語は生の英語ではないから、現地で通用するかどうしても不安だった。
そこで1970年4月、入る大学がまだ決まらないまま、アメリカに旅立ち、ワシントンD.C.で英会話学校に通いながらいくつかの大学に願書を出しました。幸いにもハーバードビジネススクールに合格し、9月に入学したのです。

「よく落第しなかったなあ」

──2年間の留学生活ではどうでしたか。初の海外ですから、日々、新たな発見があったのではないですか。
発見というより、ひたすら苦労の連続でした。まず、英語のヒアリングが全然できない。勉強したといっても付け焼刃だし、周りの学生はみんなスラングで話しますから、何を言っているかわからない。
ハーバードの授業は講義がないんです。ビジネスのケーススタディを予習してきて、それを学生が発表し議論する形です。1つ数十ページもあるケースが1日に3つも与えられるので、予習するだけでも大変です。
しかも、ヒアリングができないとディスカッションについていけないし、50~60人もいる階段教室で発表すること自体、とても勇気が必要です。
さらには、授業の始めに先生が「このクラスの25%が落第します」と言ったので、「ああ、今日も何も発言できずに終わってしまった。会社からお金を出してもらって、落第したらどうしよう」と毎日プレッシャーが積み重なっていきました。
生活自体も大変でした。私は留学2年目に、妻と2人の子どもをアメリカに呼び寄せたのですが、会社から支給される留学費用は私の分だけで、妻と子どもの航空券や生活費は自己負担でした。
さらに私はそれまで、運転免許を持っていませんでした。アメリカは車がないと生活できない社会ですから、勉強の合間に免許を取得し、妻の外出や子どもの送り迎えも全て私がやりました。そういった意味でも、勉強と生活の二重苦を味わいました。
すると、四苦八苦する私を見かねてか、大学の先生が授業の前日に「ミスターミムラ、明日あなたを指名しますからね。準備しておきなさい」と電話で予告してくれたこともありました。
そのような計らいのおかげもあって、なんとか2年間を無事乗り切り、MBAを取得することができました。留学生活のことを「どうでしたか」とよく聞かれるのですが、無我夢中だったので「よく落第しなかったなあ」というのが正直な感想です。
必死の留学生活だったため、2年の間、一度も帰国しませんでした。だから日本に帰って見た富士山は本当に美しく、感激したのをよく覚えています。
(構成:合楽仁美、撮影:竹井俊晴、デザイン:今村徹)
*続きは明日掲載します。