ブラックボックスのようなシステム

ルーク・エリスは、世界最大のヘッジファンドの最高経営責任者(CEO)としてリスクに対して健全な欲求があると自負している。「私の仕事は動揺しないことだ」と、エリスは言う。
だが5年ほど前、彼は動揺した。それも、かなりだ──。
彼を驚かせたのは、自身が率いるマン・グループが行ったあるテストだった。テクノロジーを中核に据えている同社のAHL部門の技術者たちが、当時はうわさにはなっていたものの広く普及していなかった人工知能(AI)に手を出した。
彼らが開発したシステムは、自立的に進化し、人間が見過ごしていた利益を生む戦略を見つけるのだ。その成績が驚くほどよく、エリスと同社の幹部はさらに計画を進める必要性に駆られた。
運用資産960億ドルのマン・グループは、通常は有望な投資アイデアのテストから実際の運用までが数週間以内に行われる。スピードが速い現代の金融界では、今日優位に立っていたものが明日になれば消えてしまうこともある。
問題は、その新しいソフトウエアがシミュレーションでは期待できるリターンを生んでいたものの、なぜAIがその取引をしたのか技術者たちに説明がつかなかったのだ。複雑で仕組みがわからないブラックボックスのようなもので、作った本人たちもそれがどう機能するか完全に理解できていなかった。
そのことがエリスを戸惑わせた。彼は技術者ではなく、新システムの開発に深く関与していなかったが、会社が大口の顧客の資産に損失を出して理由を問われた時に「なぜだかわからない」という答えは受け入れられないことは、本能的にわかっていた。
そこでエリスとチームは、そのプログラムを急ピッチで進めるのではなく、長期的なテストを行うことにした。エリスによると、皮肉なことにAIのシステムはまるでなんらかの形で社のメインシステムに影響を及ぼすと恐れられていたかのように、別のサーバー上にとどめられたという。
「部屋の隅にある核シェルターに収められていたんだ」と、エリスはロンドンにあるマン・グループのオフィスでソーダ水を飲みながらジョークを飛ばした。昨年CEOに就任したエリスは、取材当時は社のエグゼクティブコミッティーのメンバーだった。
「私たちがそれを恐れていたかって? イエスだ。それを見るたびに手を引きたくなるくらいね」

大口顧客も満足、AIが戦力基盤に

そのシステムが隔離されていたのも2014年までだ。シニアポートフォリオマネジャーで数理論理学の博士号を保持しているニック・グランガーがテストを終える時だと決断したのだ。
グランガーは自身が管理しているポートフォリオから少額をAIシステムを使って運用し始め、徐々に金額を増やしていった。AIはそのたびに利益を生んだ。「私たちが投げかけたことは何でもこなした」と、短い金髪で細い目に四角い黒縁メガネをかけた学者風のグランガーは言う。
グランガーの取り組みによって、マンはAIに対して自信を持つようになった。2015年までには、同社最大のファンドの一つであるAHLディメンションプログラム(運用資産51億ドル)の収益のおよそ半分をAI運用が占めるようになった。
マンのあらゆる分野で、そして業界全体でも、最速で取引を実行する方法を見つけ、市場に投資し、プレスリリースや財務報告書を分析して株価の増減のサインを見つけるのにAIの技術が利用されている。マンでは、経験豊富なアセットマネジャーを中心に人の裁量に任されている部門でもAI技術を活用している。
エリスが当初懸念していた大口顧客も成績に満足し、アルゴリズムに基づいた運用を中心に行う同社のファンドには客が押し寄せている。4つのファンドの総計でAIが運用する資産は123億ドルに達する。マンの運用資産は2014年初頭以来、約77%増加。AHLディメンションについては同時期から5倍にもなった。
社内ではかつてはAIが疑問視されていたが、現在ではそれが戦略基盤になっている。今の同社の最大の支出はコンピューター関連機器と、テクノロジーの変化と成長に乗り遅れないための技術者の採用だ。
エリスは同社におけるAIの存在について「完全に孤立させられていたところから『よし、私たちと一緒にディナーを囲んでもいいがしゃべってはいけいない』という扱いになり、家族の一員になるところまできた」と説明する。
マン・グループのAI運用は、劇的な変化の最前線に立っている。その変化とはグローバルな金融の世界を作り変えるものであるだけでなく、人間がほぼ関与せずアルゴリズムが莫大な額の取引を決断するヘッジファンド業界について一石を投じるものだ。
マンはその変化を活用しているが、CEOのエリスは変革のスピードにおののいている。期待通りの成績を上げるのか、その新しいツールが未来について何と言うのか神経をとがらせている。
「私がつねに希望しているのは、AIがしないことで人間がするものが今後もあることだ」とエリスは言う。しかしこう付け加えた。「でも命を懸けるほどそれを確信してはいない」

AI導入が進む2つの要因とは

AIについて十分な知識を持たない人、つまり大半の人にとっては、AIのシステムが稼働しているところを見るのは、不可解な言語を解読しようとするようなものだ。
2年前からマンに勤務しているブルガリア出身のコンピューター科学者スラビ・マリノフ(31)は、同社のロンドン本社を取材に訪れた2人のジャーナリストに対し、コードを理解しやすい言葉に置き換えようと努めてくれた。
マリノフが言うところの初歩的なデモンストレーションで、彼は黒いスクリーンに複数のコマンドをタイプした。AIに先物市場のリターンのパターンを見つけるよう指示しているのだ。
マリノフはさらにキーを叩き、世界中の企業の詳細な取引情報を含む何百万というデータをAIシステムに徹底的に調べさせる。彼がエンターキーを押すと、連続した数字が画面に降り注いだ。ITサスペンス映画でオープニングクレジットの背後に写されるような光景だ。
0.3426383
0.237250642
0.53534377
この番号はコンピューターが「考え」、人間にはとうてい不可能な速さでデータを処理していることを示している。「決断を下す要素が、これらの数字が積み重なったものだ」とマリロフは言う。彼はマンに入社する前は、スタートアップ企業で教育関係のソフトウエアの開発を行っていた。
次の段階でAIは、どのデータが重要なのかを判断し、次に何が起きるのか可能性を導き出す。そして、こうした情報に基づいて最適な選択を決定すると、幅広い市場のトレンドと取引にかかるコストを評価し、そのうえで取引を実行するかどうかを決断する。これらすべてがわずかな時間に行われるのだ。
マンやその他のヘッジファンドでAIの導入が進んでいることには、相互に関連した2つの要因がある。ひとつはコンピューターの処理能力が飛躍的に向上していることだ。
マンはロンドン郊外に大規模なサーバーを有しており、そこで導入されているコンピューターには、従来は高度なビデオゲームの画像処理に使用されてきた最先端のプロセッサーが搭載されている。プロセッサーの価格は1000ドルほどで、10年前から大幅に低下した。
AI台頭のもうひとつの理由が、データのこの上ない有用性だ。処理能力がAIのエンジンだとすると、情報は燃料だ。情報によって技術者らは、人間の手を介することなくスキルを適用し、学習するよう教えることができる。
マリノフは、コンピューターにいくつかコマンドをタイプし、この最先端の機器の使用を希望している技術者らのウェイティングリストを見せてくれた。需要がとても高いため、プロセッサーが過剰に使用されると警告が発せられる。10代の子どもが夏休みに1日中ゲームをやってしまうのと同じようなものだ。

人間の仕事はなくならない?

推定では、今日保存されている全データの9割は過去2年間につくられたものだ。マン・グループが保存しているデータには、証券の情報から天気予想、コンテナ船の運行状況まで含まれ、その量は一般的なオフィス用コンピューター1万台分以上に相当する。
一方で情報を蓄積するコストは急落している。1981年当時、1ギガバイトのデータを保存するコストは30万ドルほどだったのが、現在はわずか10セントだ。
「データは以前よりも安くなり、その有用性は莫大だ。保存のコストは基本的に問題ではない」とマン・グループの最高投資責任者(CIO)サンディ・ラットレイは言う。「それをどう使うか? それが難しい」
機械が人間の仕事を奪うという話はよく取りざたされるが、AIのシステムを構築・管理するには多くの人手を要し、マンではMBA取得者よりも技術者やデータサイエンティストの採用に力を入れている。完全に自動化されたコンピューターが人間にとって代わることは、すぐにはない。
「人間がいなくなり、プロセスから排除されるという考えは正しくない」とグランガーは言う。「人のタスクが変わるだけだ。より高いレベルの価値の高いタスクだ。以前に増して賢い人間が必要とされている」
マン・グループや競合他社が導入している機械学習は、何十年も前から存在する。ニューヨーク・タイムズも1950年代の記事で、画像を分類するよう学習したアルゴリズムについて紹介している。しかし、その技術は今やっと期待通りの成果をあげはじめたところだ。
過去の情報をもとに判断する機械学習システムは、X線の画像を分析したり、ユーザーがSiriやAlexaに尋ねた質問に答えたり、自動運転車などにも使われている。フェイスブックやグーグルはコンピューターに犬や猫など写真のイメージを認識するよう学習させている。
金融はおそらくAIにとって最も手ごわい挑戦だろう。コンピューターに債券市場を調査させることは、ラブラドールを正しく認識させることとはわけが違う。マーケットはニュースになるような出来事や経済、政治、規制、そして人間の判断などの影響を受けて、不可解に変動する。
「金融の世界では、つねに地盤が揺れ動いている」と、マンAHLの共同最高技術責任者(CTO)ゲイリー・コリアーは言う。

マンの幹部が好むAIにまつわる話

コンピューターのコードは何年も前からトレーディングにおける一般的なツールとなっている。何かが起きたときにコンピューターにどう対処すべきか学習させることは、定量分析を基に運用を行うクオンツファンドの基本だ。
コンピューターはタスクを何倍、何千倍も処理することができるようになったが、コードは数学者や技術者、統計学者が介入しなければ変化も進化もしない。
AIはそこからさらに、受け取る情報に基づいてシステムを適応させることができる。マンでは技術者が、エクスポージャー、アセットクラス、ボラティリティ、取引コストなどのパラメーターを設定する。
コンプライアンスやリスク管理の規定はシステムのDNAに叩き込まれており、急速に利益を上げようと不正をしたりしないように制御している。
AIシステムはその後、人間にはわからないデータ間のつながりを見つけ、パターンを探す。AIは過去の事象を基に予測をし、勝算がある場合に取引を実行する。マンにはそうしたシステムが複数あり、スピードが最も速いもので日に複数回取引を実行し、2週間かそれ以上稼働しないものもある。
マンの幹部が好むAIにまつわる話がある。
2015年8月、中国経済に関する懸念が突如としてセルオフを招いた。マンのAIはそれ以前から市況の低迷を見込んでいたため、それによってすぐに利益を上げた。しかし米市場が約3%落ち込むと、AIは買いのチャンスを察知し、実行した。
当然ながらAIに未来を予測することはできないが、アルゴリズムはパターンを学習することができるのだ。昨年の11月と12月には、ドナルド・トランプが米大統領選で勝利したことに世界が動揺するなか、マンのAIは即、買いに動き、その後に訪れた市況の回復から利益を得た。
※ 続きは明日掲載予定です。
原文はこちら(英語)。
(執筆:Adam Satariano記者、Nishant Kumar記者、翻訳:中丸碧、写真:v_alex/iStock)
©2017 Bloomberg News
This article was translated and edited by NewsPicks in conjunction with IBM.