DMM亀山敬司が後継者に選んだ新社長・片桐孝憲の実像

2017/12/2

猪子さんとの出会い

夜中の3時頃、突然、「猪子、呼ぼうか」と言い出しました。猪子とはチームラボの猪子寿之さんです。
僕は「絶対呼ばないで」と心の中で悲鳴を上げました。猪子さんの周囲の人から「妖気が出ている」という噂を聞いていましたし、外見にもフレンドリーな印象を抱いていなかったのです。
朝4時頃、猪子さんが登場します。
席につくなり、「俺はさぁ、今日から“ネット猪子”じゃなくて“ロボット猪子”だから」と語り始めました。そこから朝8時までノンストップの独演会です。
そして、ふと僕を見て「君は、何?」と。
「僕、pixivというのを作っている片桐と言います」──。

食事代誰出す事件

約束の日時に待ち合わせのチームラボを訪ねると、応接スペースに「あれは絶対、DMMの亀山敬司さんだ」という人物が1人で座っていました。亀山さんは放置状態です。
僕は根が人見知りです。参ったなと思いましたが、周りには誰もいません。
1時間ほどぎこちなく話をしていると、猪子さんが登場。3人で食事に出かけることになりました。
いざ話をしてみると、亀山さんは普通に面白いおじさんでした。
食事が終わり、さあ会計という段になった時、僕は当然、亀山さんが全員の分を払ってくれるだろうと思っていました。ところが──。

DMM.com社長就任の真相

運命の夜を迎えます。
3連休前の金曜日、暇だった自分は夜8時頃に2人の友人に「腹減った、めし行こう」とメッセージを送りました。
食べ終わると、六本木のアワバーに向かいました。
「おお、亀山さん」
友人と亀山さんは初対面です。
亀山さんが友人の会社を欲しいと言い出し、その場で価格交渉が始まりました。
すると、いきなりボールがこちらに飛んできたのです。
「お前が決めろ!」──。

会社経営をなめてました

会社を辞め、大学を中退した自分は、仲間2人と会社「ウェブッテネット」を立ち上げました。社名は「Webって、ネットだよね」と先輩に言われたのが由来です。
実は何をやるのかまったく考えていませんでしたし、何のあてもありません。
ただ、自信だけはやたらにあって「自分が会社を始めたらこれは儲かっちゃうよなぁ。でも儲かりすぎたらどうしようかなー」なんてことを本気で心配していました。
もちろん、そんな心配はすぐ杞憂に終わります。
起業してからの最初の1~2年は本当に辛かったです。
社会の厳しさを痛感し、飛び出した会社の社長や世の中の会ったこともない経営者に対して「ごめんなさい、会社経営をなめてました」と謝りたい気持ちでいっぱいでした──。

人気があれば何でもできる

pixivの仕事をしていると社内の人間からは「片桐さん、何やってるんですか、お金になる営業に行ってくださいよ」と責められる。
受託開発のお客さんからも「なんでそんな金にならないこと、やってるの、収益化の方法ないからやめた方がいいよ」と中からも外からも散々言われました。
確かに1円にもなりませんでしたし、収益化の絵も描けていませんでした。
でも、アントニオ猪木の「元気があれば何でもできる」じゃないですが、「人気があれば何でもできる」と思っていました──。

pixiv飛躍

2008年はpixiv飛躍の年になりました。
オフィスもはち切れんばかりになり、初の技術者以外の社員を採用しました。
それまで社員はエンジニアしかおらず、皆、電話で作業が中断することをひどく嫌っていました。
電話が鳴っても、聞こえない振りをしたり、ヘッドホンをしたりで誰も取ろうとしないのです。
やがて「取れよ!」「嫌です!」というもめごとが頻発するようになりました──。

VCから無視されて

pixivがスタートする前、独立系のベンチャー・キャピタル(VC)のトップを紹介されたことがありました。
彼には「会員数10万人くらいのサービスができてからじゃないと出資なんかできないよ」と言われました。
僕は会員数が10万人を超えた時に、その人に出資を仰ぐべく連絡を取りました。
しかし、彼からは返事さえありませんでした。
pixivは、VCにとっては魅力がないのか。
そう思った僕たちは、自力で黒字化をするしかない、と決意します──。

DMM社長就任後に考えたこと

この1年でもnana music、ピックアップ、バンクなどの買収や、仮想通貨事業への参入など、どんどん新しい事業が生まれてきています。
亀山さんからは特に何も言われていませんが、つまりは──。
(予告編構成:上田真緒、本編聞き手・構成:南部健司、撮影:遠藤素子、バナーデザイン:今村 徹)