逆算とオンサイト。バルサ、レアルに採用された日本人の強み

2017/9/9
サッカー世界最高峰の大会、UEFAチャンピオンズリーグ。世界中のフットボーラーが一度は夢見るこの舞台で、10年も前から活躍する日本人がいる。
岡部恭英――。
UEFA(欧州サッカー連盟)のマーケティング代理店「TEAMマーケティング」で、UEFA主催クラブ大会のテレビ放映権/スポンサー営業 アジア・パシフィック&中東・北アフリカ地域統括責任者を務めている彼は、UEFAチャンピオンズリーグに携わる初のアジア人としても知られる。
7月、岡部氏は欧州サッカーのオフシーズンに日本へ帰国し、『プロスポーツビジネス 私たちの成功事例』(東邦出版/編)の出版記念イベントにメインゲストとして登壇した。
イベントのテーマは、岡部氏が常々その重要性を口にしている「人財」だ。この日、岡部氏の声掛けによって、国内外のスポーツビジネスの最前線で活躍するトップランナーが集結した。
そこで今回は、スポーツビジネスの世界で活躍する人材になるためのヒントについて、岡部氏の挙げる3つのキーワードを、同イベントに登壇したトップランナーの言葉とともにひも解いてみたい。

ロマーリオに惹かれ、バルセロナに就職

岡部氏の挙げるキーワードの1つ目は、「ゴールからの逆算」だ。
自分の掲げる目標に向けて、どうすればそこにたどり着けるのかを逆算し、これからの行動を決めていく、ということだ。
イベントに登壇した斎藤聡氏(※)が、110年の歴史の中で初めてアジア人としてFCバルセロナの職員の座をつかんだ過程には、「ゴールからの逆算」があった(※イベント当時、日本サッカー協会 特命室 部長代理。現在はオリンピックのスポンサーアクティベーションを専門にするGMRマーケティングに在籍)。
(提供:岡部恭英)
新卒で入社した総合商社で働いていた斎藤氏が、スポーツビジネスの世界を志すようになったのは、岡部氏の「おまえ、暗いぞ。仕事は楽しくないのか?」という一言がきっかけだった。
慶應義塾大学体育会ソッカー部時代の先輩からそう言われた斎藤氏は、あらためて自分の夢が何なのかを考えた。
「14歳でオランダにサッカーの遠征をしたときのことです。当時オランダ(PSVアイントホーフェン)でプレーしていたロマーリオにサインを求めたら、色紙をはたいて行ってしまいました。『なんてことをするんだ。なんでこんなに性格が悪いんだ、この人は』と思い、それから大好きになってしまいました(笑)」
「その後、ロマーリオはFCバルセロナに移籍することになり、『そんな問題児を獲得したFCバルセロナって、どんなクラブなんだろう』と惹かれるようになりました。それからずっとFCバルセロナのファンでしたね」
自分の夢は、大好きなFCバルセロナで働くこと――。
そう決めた斎藤氏はまず、FCバルセロナで働くというゴールからの逆算を始めた。
1994年のスペインリーグで対戦するバルセロナのロマーリオ(左)と、レアル・マドリードのラファエル・アルコルタ(写真:アフロ)
世界トップクラスのクラブのフロントで活躍するには、最低でもMBAを取得する必要があると考えていた。だがそれだけでは、世界中の超エリートが憧れる場所に、サッカー先進国とはいえない日本人の自分がたどり着くことはできない。
思案をめぐらせていた斎藤氏は、あるビジネススクールの情報を目にした。
「バルセロナにESADEという世界でも有数のビジネススクールがあるのですが、当時のFCバルセロナの副会長サンドロ・ロセイ(後に会長)や、フェラン・ソリアーノ(現マンチェスター・シティCEO)が、ESADE出身だとわかったのです。OB会のようなものがあれば、彼らと関係を持つことができるかもしれない。そうすればFCバルセロナへの道が開けると考えて、ESADEへ留学することを決めました」
ESADEに入学した斎藤氏は、まずネットワーク構築のために動いた。毎日のように履歴書をクラブへと送り、会う人会う人に「FCバルセロナで働きたい」と言い続けた。
また自らスポーツビジネスのセミナーを開催し、FCバルセロナのクラブ関係者を呼んだこともあった。彼がESADEの出身であることがわかると、「私はFCバルセロナで働くためにESADEに入りました。同じESADEの出身なのだから、後輩の面倒を見るのは当然ですよね」と伝えたのだった。
それでも当初は断られ続けていた。だが諦めずに食いつき続けることで、やがてクラブの仕事を少しずつ手伝うことができるようになっていった。
さらには、プレシーズンの日本ツアーに自費で同行することが許され、さまざまな業務を行った。その中で偶然、クラブの副会長でESADE出身のフェラン・ソリアーノと話をする機会が巡ってきたことで、正式にFCバルセロナの一員となることができたのだった。
(提供:岡部恭英)
斎藤氏は最初にまず、「FCバルセロナで働く」という「ゴール」を明確に設定した。そのゴールに向けて逆算することで、「ESADEに入学し、クラブ関係者とのネットワークを構築する」という具体的なプロセスが導き出された。あとは、行動あるのみ。
「ESADE出身」という経歴も手伝い、夢のFCバルセロナへの扉をこじ開けたのだった。

スペインで日本人が持つ武器

キーワードの2つ目は、「オンサイト」。
サッカーであれば欧州、野球であればアメリカなど、その中心地へと渡るということだ。
実際スポーツ界では、新しく仕事の採用を行うとき、まずスポーツ界内部で人を探すことから始めるケースが多い。外部の人間を探すのは、その後になる。これは日本でも海外でも同様だ。
良いか悪いかは別にして、そういったスポーツ界の現状を鑑みれば、まずは「オンサイト」へと飛び込むことが非常に重要だと言えるだろう。先ほどの斎藤氏も「オンサイト」にいたからこそ、クラブ関係者とネットワークを築き、さまざまな情報を手に入れることができた。
また、「オンサイト」に出ていくことは、「自分」を大きく変えることにもつながる。「場所」を変えることで、「会う人」が変わり、「思考」が変わり、「言葉」が変わり、「行動」が変わり、そして「成果」が変わっていく。自分の夢に向かって加速していくためには、「オンサイト」に飛び込んでいった方がいいというのが、岡部氏の持論だ。
現在レアル・マドリードでニューメディアビジネスコミュニティ・マネージャーを務める酒井浩之氏がその座をつかめたのも、やはり「オンサイト」にいたからだった。
大学卒業後、スポーツブランドや広告代理店で働いていた酒井氏に転機が訪れたのは、35歳のときだった。ある先輩から「サッカービジネスの本場で人生を懸けて勝負したいという覚悟があるのなら、一つ紹介するぞ」と言われたのをきっかけに、スペインへと渡り、レアル・マドリードの大学院(レアル・マドリード・ウニベルシダ・エウロペア大学院)に入ることを決心したのだった。
同期の学生は皆、ハーバード大学やコロンビア大学を卒業し、名だたる企業で働いた経歴を持つ超エリートばかりだったという。そんな学生たちが、授業で先生の言っていることに対して、「自分がやってきたことと違うんですが、それってどうなんですか?」と反論している。日本で生まれ育ってきた酒井氏にとって、それは見たことのない光景だった。
(提供:岡部恭英)
さらに酒井氏は、過去に留学経験があるわけではなく、スペイン語はもちろんのこと、当初は自信を持っていた英語でさえもほとんど通じなかった。入学した当初は、戸惑うばかりの日々だったという。
だが、クラスメートに言われた言葉が、酒井氏の思考を変えた。
「『おまえ、日本語がわかるじゃないか。そこに英語とスペイン語をちょっと話せるようになれば、おまえの方が強いぞ』と。確かにスペイン人にとって日本は地球の裏側にある国で、まさに地図上で見ると“極東”なんです。英語とスペイン語ができる人間は世界中にごまんといますが、日本語を使えて、日本のことをよくわかっている人間は、そうそうスペインにはいない。これが自分の武器なんだ、この武器を思う存分使えばいいんだと考えるようになりました」
思考が変わった酒井氏は、行動も変わった。会う人会う人に自分をプレゼンテーションしていった。“日本人”として発言していくことで、やがて周りからは「この場合、日本ではどうなんだ?」と質問されるようになった。ポジティブサイクルに入っていったことは、自身でも感じるようになっていた。
そうした中で、レアル・マドリードのインターンシップが決まった。日本語の使える職員が産休を取るということで、日本人の酒井氏に白羽の矢が立ったのだった。インターンではソーシャルメディアの日本語アカウントの運用に従事。その後も契約社員を経て正社員として働き続け、現在に至っている。
酒井氏の事例からわかることは、「場所」を変えることで「自分」を変えたことと、自分の武器がクラブの目に留まったこと、そのいずれも「オンサイト」に出ていったからこその結果だということだ。
言葉や環境の違いなど、海外に出て勝負することに不安を抱く人は多いだろう。確かに酒井氏も渡欧してしばらくは苦しんだようだが、それ以上に手にしたものは大きかったといえるだろう。
*明日に続きます。