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【高橋源一郎】「歎異抄」が現代に示唆するもの

NewsPicks編集部
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    親鸞にマルクスとはまた。。吉本隆明か!高橋源一郎は作家なので、五木寛之的説教臭いダンディズムを語るのかと思いきや、言語論的転回の実在論を分かりやすく語る。(島田雅彦はツマ扱いw)

    昔はコメンテーターのようなこともやってた高橋源一郎だが、話が分かりやすく、しかも常識とは逆の視点であるところが非常にユニークで面白い。

    最近小説を読む気が失せていたが、古典は読んでみたくなった。風化せずに残った断片がそこにあるかもしれないので。


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    日本の仏教信者数で圧倒的な大多数を占めるのが親鸞が開いた浄土真宗、ということを考えると非常に面白い論考になってくる。
    当時は議論になった異端な考え方が結局は今度は常識になってる、と。確かに親の世代なんかは葬式でも何も考えずに南無阿弥陀仏とか言ってるものなあ…。


  • 高橋さんの言を単純化(笑)すると、「正規の思考」とは「単純化の思考」。
    で、親鸞は「正規の思考」から降りたと。それは庶民の実相ではなかったから。

    私見だけれど、単純化したのは思想よりも先に生態だと思う。

    もともとの人間の暮らしとは、複雑な世界のなかで身体的直観を作動させて営んできたもの。動物はみんなそうだし、いわゆる未開人もそう。親鸞の時代の庶民もそうだったろうと思う。

    当時でも、エリートの世界は単純化されたものだったでしょう。自身の身体性を発動させなくても暮らすことができた。そうした「余裕」のある者がたちが「思考」を試みて、それを「正規」と為した。ゆえに「単純化」が「正規」になった。

    現代は貨幣経済が広く深く浸透して、単純化が庶民にまで及んでいます。単純化した庶民とは消費者です。

    面白いというか皮肉というか、文学などという「余裕」のなせる技を生業としている人間が「非正規」「複雑」という。まあ、それはいいとして、気になるのは「申し訳なさ」。

    親鸞には「申し訳なさ」があります。
    「正規」であったこと、エリートであったことへの「申し訳なさ」。
    「申し訳なさ」が親鸞の宗教性だろうぼくは思う。

    親鸞を背景に文学の正統性みたいなところへ議論が着地するのであるなら、親鸞の「申し訳なさ」には気がついていないということになるでしょう。
    もっとも「申し訳なさ」を追いかけると文学などやっていられなくなるのでしょうけれど。

    親鸞は最後に「親鸞一人」と言っています。
    親鸞が救おうと思った庶民に救われたのは親鸞当人だったという逆説です。
    『歎異抄』が発禁になるわけだけど...


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