【第2回】公然と批判したら大臣から嫌われた

2017/6/11
地域再生には、「よそ者、若者、ばか者」が必要とよく言われるがそれは本当なのだろうか。修羅場のリーダーシップとはどのようなものなのだろうか。35歳で縁もゆかりもない陸前高田市の副市長を務め、現在、立命館大学公共政策大学院で教鞭をとる久保田崇教授が、陸前高田でのリアルな体験を振り返りながら、「よそ者のリーダーシップ」の真髄について考える。
ボランティアに入ったのが縁で陸前高田市の戸羽太市長から副市長への就任要請を受け、2011年8月から、私は陸前高田市で働くことになりました。
陸前高田市役所(プレハブの仮庁舎)

市長の代理で、野田総理に「ご説明」

副市長となって1カ月となる2011年9月、職責の大きさを痛感した出来事がありました。当時の野田内閣総理大臣が、視察に来られたのです。
もちろん、被害の大きい被災地ですから、総理大臣が視察に来ることもあるでしょう。実際、この後も各省庁の大臣や幹部、国会議員などが続々と(毎週のように)お越しになりました。
ちなみに、天皇皇后両陛下がお越しになった際(2013年7月)には、とても緊張しましたが、沿道などでお迎えする市民の喜びぶりは尋常ではありませんでした。比較するのはそれこそ失礼に当たりますが、どんな著名人が来たときよりも勇気をいただいたのです。
こうした被災地お見舞(行幸啓)は、天皇陛下ご自身の強い意志により実現したと伺っています。(しかも訪問先が偏らないよう、岩手県のほか、福島・宮城・青森の各県にも公平にお見舞されています)。昨今天皇陛下のご公務の在り方が議論されていますが、この「命を懸けたご公務」には本当に頭が下がります。
話を元に戻します。総理訪問などの際には、当然先頭に立って対応するはずの市長が、このときは別の公務(復興支援でとてもお世話になっている方々の大きな集まりが九州で開催された)により、不在だったのです。
総理訪問も、すでに市長日程をキャンセルできないような直前になって決定されたため、どうしようもありません。
代わりに、まだ就任間もない私が、陸前高田市を代表して総理をお迎えし、被災状況と、復興の課題と要望を説明することになりました。
よそ者の私より、もっとうまく説明できる職員がたくさんいるのでは??と正直思いましたが、そこは組織のトップが対応するのが筋。職員が作成してくれた資料を急いで頭に入れ、慣れない防災服姿で、緊張のうちに総理をお迎えしたのです。
2011年9月10日、野田総理大臣(左)が陸前高田市を訪問。右端が筆者。
幸い、野田総理は無口な方だったので(笑)、質問攻めにあうようなこともなく、事なきを得ました……。
私は国の官僚としては、まだまだ中堅の課長補佐クラス。総理大臣と直接話すことはおろか、総理秘書官と話をすることさえ緊張するような立場に過ぎません。
市長の代理を務めることが副市長の重要な役割とはいえ、就任1カ月で被災自治体トップとして総理大臣をお迎えしたことで、副市長という職責の重さを痛感しました。

避難所さん、ありがとう

その頃、住民はどのような生活だったのでしょうか。2011年4月頃から就任した8月にかけて、被災者は体育館などの避難所からプレハブの仮設住宅に順次移転を行っていました。
例えば、就任して数日後には、市内最後の避難所(陸前高田市立第一中学校)を閉所するセレモニーが行われました。副市長日程は全て秘書係に管理されていますが、このときは昼休み時間に自主的に避難所まで足を運んだのです。
避難所となっていた陸前高田市立第一中学校体育館
住民にとっては、数カ月の間、自宅を失った同じ境遇の仲間とともに生活の拠点となった場所です。これから各地の仮設住宅に分かれて生活することになるので、名残惜しかったのでしょう。
「避難所さん、ありがとう。みんなで力を合わせて、ここまで来られました。ここから離れて仮設に移っても、体に気を付けてがんばろう」そんな会話が交わされました。(その際、住民の一人から新しい副市長が来ていると見つかって、前で挨拶をさせられました)
陸前高田市立広田小学校の仮設住宅。市内で2,168戸分の仮設住宅が設置された。このうち、2016年末時点で840戸(39%)に被災者が住んでいる。
「よそ者だから、地元住民との付き合い方には、苦労したんじゃないですか?」とよく聞かれますが、驚いたのは住民との距離が、「あまりにも近いこと」でした。

スーパーで買い物したら拉致された

着任して間もないある日の昼休み、スーパーでお弁当を買っていたら、ある女性の方に声をかけられました。
「あんだ、副市長さんだがすぺ? 暇だべがら、おらいさ寄ってがい」(念のため、訳「あなた副市長さんですよね? 暇してるでしょうから、うちに寄ってって」)と半ば強制的に家に連れていかれたのです。
連れていかれた先は仮設住宅ではなく、津波を免れた一軒家でしたが、通された居間の正面には、おそらくご主人のものであろう、遺影が飾ってありました。
そのうち、ご近所さんもわらわらと集まってきて、お手製の漬物をいただきました。狭い町ですから、住民とのお付き合いは、このように濃密なのですね(笑)。
しかし、役所に言いたいことがある人は多いので、油断していると「ところで、あの道路のことだけんど、もっと早くやってくれないべかね」といきなり要望が始まることがあるので、要注意です。
このときも、確か道路の要望をされたように記憶しています。それ以降、市内の各地区ごとに、ニーズの高い(要望されそうな)事業とその進捗状況を頭に入れるようにしたのは、言うまでもありません。
筆者を拉致?した吉田弥津子さんと。吉田さんは義兄の遺志を継ぎ被災民宿をペンションとして2014年に再開した。2017年3月ペンション福田にて撮影。
ペンション福田の外観。
陸前高田市で仕事をするようになって数カ月、このように日々バタバタしながらも、徐々に被災状況や現場ニーズを把握する中で、次の1件では、現場の思いを伝えようと意気込むあまりに、してはならない過ちを犯してしまったのです。

復興庁を冷ややかに見ている官僚

国の復興庁設立を冷ややかに見ている官僚がいた──。
2011年12月に放送されたフジテレビの「新報道2001」の密着取材で、そんなちょっと斜に構えている、私の姿がテレビに映りました。
そのテレビ取材を受けた時期、閣議決定で復興庁の設置が決まったものの、その岩手の支局が、被災地の現場からほど遠い「盛岡市」に置かれることが発表されたのです。
復興庁設置法(平成23年法律第125号)第17条第3項に、復興局の所在地が定められている。
これに対し、「被災地の自治体が、支局を通して復興庁とやり取りすることは、(復興の)スピードに欠ける」「住民にとって、復興庁は遠い存在である」という趣旨のコメントをし、国の復興対策の遅さや柔軟性のなさを公然と批判してしまったのです。
私としてはこの発言は、まもなく設置される復興庁に対し、期待できる部分と改善を望む部分の両方について、(公平に)コメントしたつもりでした。
ところが、テレビ編集の仕組みをよく知らない私が悪かったのでしょう、「復興庁に対する批判だけ」が編集過程で切り取られ、放映されてしまったのです。

復興大臣の反応

このテレビ放映後、復興庁の職員から、「大臣がその番組のことを気にしている。久保田副市長の発言はどういった趣旨なのか?」と忠告めいた電話がありました。
また、その大臣からは、私が市長の代理出席した会議で「もっと簡潔に発言しなさい」などと、あからさまに私の発言だけを制するような行動を取られました。これを見て私は「大臣に嫌われた」と感じました。

してはならない批判だった

社員が社長を対外的に批判することはまずいのと同様、官僚が(上司であるはずの)大臣を表立って批判することもまた、NGです。
もっとも私は形式上、内閣府を退職して地方公務員(陸前高田市の職員)となっていたので(給与も陸前高田市役所から支給される)、厳密に言えばその時点では国家公務員ではありません。
さらに、地方分権が進んだ現在では、建前上は国と地方自治体は「同格」なのですから、実際しばしばみられるように、知事や市長などの首長が政府や大臣を批判することもあります。
しかし、私の場合は任期が終われば国に戻るのが通例ですから、官僚の身分が継続していると見られることも仕方ないのでしょう(実際には、4年間の任期を終えた後は、内閣府に戻らずに「本当に」辞めてしまったのですが)。
実際、批判された大臣のほうからすれば、新しい組織が設置されて、さあいよいよこれからというときに、(部下であるはずの)官僚から冷や水を浴びせられた格好となり、面子をつぶされたと感じたのだと思います。
また、一般に自治体は中央省庁からの出向者に対し「国とのパイプ」を期待し、予算や情報の獲得を期待するものですが、その点においても、中央省庁との関係が乱れては、そうした期待に応えることができなくなります(そもそも、こうした目的での官僚の地方出向については、疑問もありますが)。
この点、私は言ってはいけないことをテレビの前で言ってしまったことを、大いに反省しました。
そのことで陸前高田市と復興庁との関係が決定的に悪化しなかったのは、幸いでした。日ごろは口が悪い戸羽市長からは、「副市長は、国の人間なのに口が過ぎる」と、(自分のことは棚に上げて)後々ネタにされましたが……。
復興庁は、復興特区法に基づく「復興交付金」を被災自治体に配分する等の業務を行う。陸前高田市には岩手県内で最大額が配分されている。(出典)復興庁『東日本大震災復興交付金制度概要「平成29年4月更新」』p6より。

復興庁はどうあるべきか

礼を逸した発言をしたものの、私は今でも、復興庁は東京ではなく仙台に本部が置かれるべきだと考えています。
もちろん、私も国で働いていましたから、「霞が関の理屈」もわかります。各省庁との調整のほか、通年で毎週火曜日と金曜日の朝は官邸で閣議が開かれること、さらに国会開会中は委員会審議に出席する必要があるので、大臣が東京を留守にできないのでしょう。
しかしそれでも、大臣が仙台にいて、つぶさに復興現場をご覧になっていれば、被災地の市長・町長からすれば気軽に相談しやすいため、復興施策が迅速かつスムーズに進むであろうし、昨今問題になっている、大臣の失言などは生じなかったのではないでしょうか(無論これは、大臣の資質の問題であって、「失言防止」のために仙台に常駐というのは、本末転倒なのですが)。
むしろ、千年に一度の災害時にこそ、様々な知恵によりこうした前例を打ち破り、被災地に本部を設置してほしかったと思うのです。
復興庁本部の位置については、法案の国会審議においても、被災地である東北に置き、東京に支所を置けばよいのではないかといった議論がありました(例えば、第179回国会 衆議院東日本大震災復興特別委員会 第13号(平成23年12月6日)井上信治委員の質問等)。
これに対し、平野大臣は東京設置を主張し、野田総理大臣は「東京に置くのが基本だが、復興庁の立ち上げまでに最終判断する」と答弁しましたが、結果的には東京に設置されたのです。
2012年2月、復興庁設置の際に看板を掲げる、野田総理大臣(左)と平野復興大臣(右)。看板には、陸前高田市の被災松が使用されている。
私見では、復興庁すら仙台に置けなかったのですから、政府関係機関の地方移転など進むはずもありません。(予想通り、文化庁の京都移転などごく一部の移転にとどまり「大山鳴動して鼠一匹」の結果に終わりました)

被災市町村の「駆け込み寺」を目指せ

復興庁には東京本部のほかに、岩手県、宮城県、福島県にそれぞれ出先機関である復興局が置かれましたが、例えば岩手復興局は「盛岡市」に置かれています。
被災が大きい沿岸部から盛岡市までは遠く、雪が降る冬季には車で片道3時間かかることもあります。このことが、沿岸部の被災市町村と復興局との円滑な意思疎通を妨げていると感じました。
復興局を沿岸部に置くというのが一案ですが、他にこれを解決する方法として、被災市町村の役所の一室に復興局職員を常駐させることが考えられます。県や市町村に出向させずに、あくまで身分は復興庁(国家公務員)のままということがポイントです。
こうすることで、被災市町村職員が日に何度もこの部屋に駆け込み、復興交付金をはじめ、国の各種の制度に関する相談(できるかどうか)や要望が日常的に可能となり、復興業務の大幅なスピードアップが期待できます。
現実には、初期の(復興庁設置直後の)岩手復興局職員は、毎週のように盛岡から各沿岸市町村まで出かけてきて、「御用聞き」がてら、会議や情報共有を行ってくれました。
しかしながら、時間の経過とともに職員も順次交代して(国の職員の異動間隔は長くて2年程度)世代交代が進むと、初期の職員のような積極性は失われてしまったのです。
もっとも、初期の職員が特別だっただけであって、以降の職員が怠慢だったわけではありません。だからこそ、制度として組み込む必要があるのです。

反省をこめて・・

復興庁批判をめぐる「失敗」を振り返ってみると、私は復興に携わるにあたり、できる限り「よそ者」の考え方やルールを持ち込まずに、地元に溶け込もう、地元住民になりきろうと意識していました。
その意識は必ずしも間違ってなかったかもしれませんが、所詮「あの日」を経験していない人間が、地元民になりきるのは無理があります。後になって気づきましたが、地元民になりきらなくても、「よそ者」が貢献できることはあります。具体的に言うと、地元と外の「通訳」になるとか。
結局、テレビ慣れしてないことも相まって、その意気込みが空回りしてしまったのです。主張すべき点は国に対しても主張すべきですが、テレビで批判するより先に、制度設計の段階で意見を述べるべきでしょう(もっとも、被災市町村には復興庁設置法案に関して、意見を述べる機会もなかったのですが)。
地元住民の間では、親元である「国」にも歯に衣着せぬ発言をしてくれたとのことで、逆に評価してくれる人もいたようです。
しかし、官僚出身者としては、テレビで批判するというやり方はまずかったと反省しています。
この一件では「ばか者」らしい失敗をしてしまいましたが、「国とのパイプ」の役割を果たすこと以外に「よそ者」ができる貢献とはなんだろうか、という模索の旅が始まったのです。
*本連載は毎週日曜日に掲載予定です。
(文中写真:著者提供、バナーデザイン:砂田優花)