競技、勉強、成長……指導者は選手の将来をどこまで考えるべきか

2017/6/4
まずは、前回の寄稿について。感想を含め、たくさんのご意見をいただいたことに深く感謝をしたい。
「虐待」という、極論とも言える言葉を使ったことが正しかったのか、そうでなかったのか、執筆者としての責任を再考する良い機会となった。
賛成意見はうれしいとして、反対側の意見に多かったのが、「本人が良ければ、いいのではないか?」である。
私はその筋の専門家ではないし、偉そうなことを言える立場でもないが、この種の問題にあって、この表現が最も危険なのではないかと思っている。
目に見えて被害が出るならわかりやすいが、経験則や判断力に乏しい若者に対して、選択肢を意図的に与えないことは、ど真ん中のストライクではなくても、外角低めのギリギリのゾーンを立派に通過する「虐待」にあたると、私は思う。
具体的な数字を持っているわけではないが、この種の事件の加害者のほとんどが言うのである、「そんなつもりは、なかった……」と。
当事者たちにその意識がないからこそ、目に見える被害はないからこそ、社会が気を配る必要がある。
このようなケースのほとんどの(他人からの)指摘が、正義とお節介の紙一重であるのは想像できるが、「本人たちの問題であるから、口をはさまない」は、危険すぎる考えではないだろうか?
選手の“人間”としての権利
NFLで、「数年前に新しく施行された、CBA(Collective Bargaining Agreement = 労使協定のようなもの)により、練習できる回数が激減した」という話を以前シェアさせていただいた
以下に、今一度、NFLの春の練習規定の概要をまとめた。
オフシーズンのチーム練習をOTA(Organized Team Activity)と呼ぶ。これは、“シーズン中の練習とは違う”という意味を込め、わざわざOTAと呼んでいる。
・基本、練習参加はボランティアである。新人以外は、この練習は強制ではない。実際に、一部のベテランは出ないケースもある
・4週間で10回のみ
・1週目は、トレーニングに関わるコーチのみ参加。ボールの使用不可
・2週目以降は、すべてのコーチが参加可能
・1回当たりの練習時間の最長は、90分が上限
・ビフォアー・アフターの練習は禁止
・ベテラン選手が練習施設に滞在できるのは、ウェイトトレーニングを含め、1日4時間まで
・週末の練習は不可
・ハードなコンタクトは不可
友人であるNFLのコーチが、「こんなんで、どうやって選手を育て上げるんだ? これでは、若手の成長機会が失われる!」と、鼻息荒く、話していたことを覚えている。
一方で、“練習が少なくなるから、コーチ陣も、プライベートな時間が増えるのだろう”と楽観していたスタッフもいたが、蓋を開けてみれば、この制度により、コーチの仕事が倍近く増えることになったそうだ。
練習やミーティング時間の減少により、選手に事前に配布したり配信したりする資料や映像が増え、アシスタントたちは、その仕事に追われることになったという。
この話の焦点は、一つ。選手のプライベート、つまりアスリートとしてではなく、一人の人間としての権利を広く認めていることにある。
この類いの話、どこかで聞いたことがないだろうか。私には、何かに似ているように聞こえる、そして、見える。
男性の産休取得、未払い残業代の支給、有給休暇の強制取得、超過勤務に対する規定……どこかの国の社会が、ビジネスのグローバル化に伴い、人事制度や会社のルールが“個人尊重型”へとシフトし始めているさまと。
大きく違うところは、海の向こうではただでさえ個人の時間や権利が大きかったものがさらに大きくなったのに対し――もちろんビジネスのグローバル化やグローバル人材の採用などが背景にあるのは間違いないが――こちら側は大きな事件や裁判、尊い人命が奪われたり、何か社会的に大きな問題が起こったりしないと、変わり始めないことである。
大学スポーツで規定変更
大学スポーツ(NCAA=全米大学体育協会)でも、同じような流れが起こっている。
アメリカンフットボールの新たなルールとして、4月の末に、同じような規定の変更が各大学に通達された。
以下は、その変更の一部である。
<2016シーズンまで>
夏のキャンプ開始から初戦までに許されている練習回数は、29回。連日の2部練は禁止。2部練を行う場合は、どちらかの練習を、(パッドをフル装備しない)軽度なものにする
<2017シーズンから>
練習回数の上限は、同じ。2部練の全面禁止
※2部練 = 2回/日、練習すること
この新しい規定は、指導者としては……微妙である。が、必要なのであろう。
スタンフォードの場合は、夏のキャンプ中もサマースクール(夏学期のクラス)をとっている選手が多いので、授業優先の姿勢を貫いている。選手が授業に出て、遅れて練習に参加したりすることは、練習の質の低下につながりかねないが、それをどう補うか、もしくはプラスにするのかを考えて、実践するのがコーチの仕事である。
同様に、今年のキャンプでは、2部練ができないオペレーションのマイナスをどうカバーするかが、この夏にわれわれコーチングスタッフに与えられた課題の一つである。
欧米で進む“個人尊重型”
アメリカのスポーツ界では、(日本に比べ)もともと大きかった“個人尊重型へのシフト”という波が、さらに大きくなってきている。
ここまでの連載でもつねに問いかけてきたが、日本のスポーツ界でそのような波を感じたことがあるだろうか?
海外にいるからかもしれないが、私の記憶の中には、鮮明に見てとれるものが存在しないに等しい。
投球過多による「球児虐待」、稀勢の里関のケガを押しての出場(3月場所、5月場所)、羽生結弦選手の脳しんとう問題など、日本人の“誠実・勤勉・尊敬”の念を基にした国民性は、チーム、指導者、周りの期待を優先する“非個人尊重”を助長してしまう傾向にある。
ファンタジーオンアイス2017でパフォーマンスを行う羽生結弦
日本の社会でも、ビジネスのグローバル化により“個人尊重型へのシフト”が進んでいる。世界の名だたる企業と同じ土俵で戦わなければいけないのであるから、当然と言えば当然である。
しかし、2020年のオリンピックに向けて、そのグローバル企業たちが湯水のように広告宣伝費を使うなか、日本のトップアスリートたちがそれらの企業のCMに起用されるなか、“スポーツ界という港”からは、“個人尊重型”という名の船の影も形も見えてこない。
技術や戦術、用具やテクノロジーは追いついているのかもしれない。
しかし、それを執り行う大切な“人間の取り扱い”については、欧米のスポーツ列強国から孤立している。まるで、神様に進化することを許されなかった、ガラパゴス諸島のように。
Athlete Future Firstか
「スポーツ・ガラパゴス化」と勝手にネーミングしてみた。
ガラパゴス諸島は、何千年前か、何億年前かは知らないが、言わば、神様から進化することを禁止されたような場所である。
しかし、ガラパゴス化している日本のスポーツは、誰に進化をコントロールされているわけでもない。
実際、リオデジャネイロ・オリンピックでは、立派に進化した姿を見せている。個人を尊重しない進化の過程には賛成できないが、ガラパゴスとは違い、自分たちで己をコントロールできるという、ある意味、理想的な状況にある。
しかも、プロ野球やサッカーをはじめとする競技全体のグローバル化や、ビジネスのグローバル化、2020年の東京オリンピックなど、建国以来と言っても過言ではない“スポーツへの追い風”が吹いている。
「ここで変えずして、いつ変えるのか!」である。
指導者でも、アスリート本人でも、その父兄でも、その友だちでもいい。アスリートやその指導者が、競技において判断・決断を下さなければいけない場面がある。そのときに、今までは頭に浮かばなかったこんな疑問を、自分や関係者に投げかけてみてほしい。
「その判断は、その人のアスリートとしての将来、人間としての将来にベストな判断であるのか?」
「“Athlete First”だけではなく、“Athlete Future First”であるのか」を。
(写真:アフロスポーツ)