【見城徹】僕を鼓舞し、現実を動かす力を与える「戦いの書」

2017/5/24
NewsPicksは今年4月、書籍レーベル「NewsPicks Book」を始動させた。1冊目の『リーダーの教養書』は、各ジャンルを代表する「教養人」が、新時代を背負うビジネスパーソンにすすめる必読書を選定するブックガイドだ。
今回はその特別編として、幻冬舎社長・見城徹氏が「自分の人生を変えた書籍」について語り尽くした。「自己検証、自己嫌悪、自己否定がなければ成長しない」を持論として、圧倒的な努力で道なき道を切り開いてきた見城氏だが、その背景にはどのような読書体験があったのか。語られざる全貌が明らかにされる。
■前半:僕の人生を切り開いた読書体験。すべてを語ろう

モハメド・アリの伝説の戦い

僕の内面を燃やすという点で言えば、ホセ・トレスが書いた『カシアス・クレイ』の右に出るものはない。
見城徹(けんじょう・とおる)
1950年静岡県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、廣済堂出版を経て、75年、角川書店に入社。「野性時代」副編集長、「月刊カドカワ」編集長、取締役編集部長などを歴任。93年、角川書店を退社し幻冬舎を設立。23年間で22冊ものミリオンセラーを世に送り出す。著書に『編集者という病い』『異端者の快楽』『たった一人の熱狂』などがある。
カシアス・クレイは言わずと知れた伝説のボクサー、モハメド・アリの最初の名前だ。本名だが、奴隷の名前だとして、後にモハメド・アリと改名した。そのクレイの内面の葛藤が、自身もミドル級世界チャンピオンだったホセ・トレスによって描かれている。
クレイは誰よりも臆病で、誰よりも練習を重ねるボクサーだった。マットに這いつくばる恐怖に日夜さいなまれ、それを振り払うように鬼気迫るトレーニングを行った。
そして恐怖の裏返しとして、勝利したリングで「俺は強い。俺は最高だ。俺は美しい!」と叫んだ。
クレイは1960年にデビューした後、またたくまにチャンピオンの座に駆け上がり、「モハメド・アリ」と名乗るようになった。しかし1967年にベトナム戦争への徴兵を拒否したことから、ヘビー級王座を剥奪され、プロボクサーのライセンスを停止された。
その後、3年7カ月のブランクを経て、アリはリングに復帰する。20代後半という、選手としてもっとも脂の乗った時期にリングから離れたアリに対し、世間の視線は冷たかった。
1971年に行われた復帰初戦は敗退。1974年にはヘビー級史上最強のチャンピオンと評されたジョージ・フォアマンに挑戦するが、ブックメーカーは賭け率1:9でフォアマン有利と予想した。
試合はザイール(現・コンゴ民主共和国)のキンシャサで行われた。アリは1ラウンド以外はゴングが鳴るのと同時に、ロープの位置まで後退し、ロープを背にしてフォアマンのパンチを受け続けた。
ほとんど打ち返さず、防戦一方の展開が続く。観客はレフェリーストップも時間の問題だと思い始めた。
しかし第8ラウンド残り16秒で、アリは反攻に出る。パンチを打ち続けたフォアマンの息が上がっているのを見て取り、バランスを崩した一瞬の隙をついて身体をロープ際から入れ替えて、右・左・右・左・右の5連打を顔面に浴びせ、最後の右ストレートをフォアマンの顎深くに打ち込んだ。
フォアマンはリングに崩れ落ち、劇的な奇跡の逆転ノックアウト勝ちを収めたのだ。
アリが実行した作戦──"rope a dope"は、「キンシャサの奇跡」という試合名とともに、ボクシング史に長く語り継がれることになった。
その後、彼は40代まで現役を続け、1981年に引退した。ボロボロになるまで戦った姿は最高にかっこいい。人間は意志と圧倒的努力と覚悟さえあれば、なんでもできる。そうしたことを再認識させられた一冊だ。

「勝者には何もやるな」

ちなみに、アリについて思いを巡らせると、僕は必ず、ヘミングウェイの残した一節を思い出す。
 他のあらゆる争いや戦いと違って、前提条件となるのは、勝者に何者をも与えぬこと──その者にくつろぎもよろこびも、また栄光の思いをも与えず、さらに、断然たる勝利を収めた場合も勝者の内心にいかなる報償をも存在せしめないこと──である。
この一節は、「勝者には何もやるな」という小説のエピグラフとして書かれたもので、僕にとっても衝撃的なメッセージだった。机の上に「勝者には何もやるな」と書いた紙を貼り、自著『編集者という病い』にもエピグラフとして引用したほどだ。
圧倒的な努力をして何かを勝ち取ったときに、「勝利」という事実以外何もいらないという彼の言葉に、僕は心底共感する。ヘミングウェイの文学は、自己検証・自己嫌悪・自己否定を重ねに重ねた上で、ようやくむくり起き上がった自己肯定にあふれている。

石原慎太郎の暴力性とエネルギー

自己肯定とは自己否定との戦いである。その戦いを果たす上ではヘミングウェイに鼓舞されるし、それと同じくらい石原慎太郎にも鼓舞される。
石原慎太郎の初期の作品『太陽の季節』『処刑の部屋』『完全な遊戯』等は、暴力とエネルギーと野心に満ちた傑作である。
『処刑の部屋』は不良同士の戦闘を描いた作品だ。主人公は野心をむき出しにし、敵対する不良に戦いを挑む。小説の冒頭は以下のエピグラフから始まる。
 抵抗だ、責任だ、モラルだと、他の奴等は勝手な御託を言うけれども、俺はそんなことは知っちゃいない。本当に自分のやりたいことをやるだけで精一杯だ。
やがて敵対する不良グループと戦うなかで、主人公は半殺しに遭う。血まみれになり、骨は砕け、指がちぎれかかりながら、主人公は最後まで、自分の目指すものに近づこうとする。そして、息絶え絶えになりながら「俺の戦いはこれからだ」と呟く。
 “俺は今そいつに、確かに近づいている。俺はそいつを超えてやる。ぶち勝ってやる。それでもこれが夢か、みんな悪い夢だと言うのか。冗談じゃない、俺は俺の思うことをやったんだ、精一杯な。俺は少くとも真面目だったさ。その決算は、答は、吉村の好きな結論は、俺には見えかかった何かのそいつは、未だだ、未だこれからずっと先だ”
 左掌で傷口をおさえ、指の千切れかかった右掌で小路の地面を掻きながら裏通り目指して、彼は少しずつ這って行った。
このラストを読むたびに、僕は息を飲まざるをえない。文学の原点は、想像力によって読者を鼓舞したり慰撫したりする点にある。そして、作品と読者の心がシンクロしたときには、圧倒的な効果を発揮する。想像力の世界を超え、現実を動かす力になるのだ。
その意味では、石原慎太郎の文学は、僕に現実を動かす力を与えてくれた。むしろ現在でも力を与え続けている。

沢木耕太郎の「自分から脱獄する旅」

最後はなんと言っても沢木耕太郎の『深夜特急』だ。多くの若者を旅に駆り立てた、ノンフィクション文学の最高傑作である。
沢木は友人と「乗合バスでインドのデリーからロンドンに行けるか」という賭けをして旅に出る。デリーに行く前には香港と東南アジア、南アジアに立ち寄り、熱狂と喧騒と混沌を巡りながら、デリーからバスを乗り継いで西へと向かう。
沢木が旅に出た目的は何か。それは「深夜特急」というタイトルに込められている。第一便の冒頭には、以下のようなエピグラフが記されている。
 ミッドナイト・エクスプレスとは、トルコの刑務所に入れられた外国人受刑者たちの間の隠語である。脱獄することを、ミッドナイト・エクスプレスに乗る、と言ったのだ。
つまり「深夜特急」とは、自分の人生から脱獄する旅のことを指す。言い換えれば、沢木は醜い自意識を脱却しようとして、長い旅に出たのだ。
伏線は、沢木が携えた本に張られている。沢木は世界地図とともに、唐代の詩人、李賀の詩集を携帯していた。李賀は「鬼才」と評され、27歳で自殺した詩人だが、つまるところ、若くして自意識を脱却し、生にとらわれない境地に至ったということだ。
対照的に、沢木は香港から東南アジア、インド、中東という長い旅路を経ても、一向に自意識から抜け出すことができない。
旅の途中では、数々の旅人とすれ違い、中には旅に没頭するあまり行き倒れた者にも出会った。沢木は我彼を隔てるものについて考え続け、ギリシャのパトラスからイタリアのブリンディジに向かう船の中で、あることに気づいた。それは、「自分は一歩踏み外せなかったために、いまこうして生きている」ということだ。
そして船の中で、以下のような手紙を記した。
 僕を空虚にし不安にさせている喪失感の実態が、初めて見えてきたような気がしました。それは「終わってしまった」ということでした。(中略)自分の像を探しながら、自分の存在を滅ぼしつくすという、至福の刻の持てる機会を、僕はついに失ってしまったのです。
さらに、手に持ったウイスキーを海に注ぎ込みながら、李賀について思いを馳せる。
 飛光飛光
  一杯酒

 二十七歳で自身を滅ぼすことのできた唐代の詩人、李賀がこう詠んだのではなかったか。飛光よ、飛光よ、汝に一杯の酒をすすめん、と。その時、僕もまた、過ぎ去っていく刻へ一杯の酒をすすめようとしていたのかもしれません。
結局沢木は、自意識と自己愛を捨て切ることができなかった。深夜特急に乗ったのに、人生からの脱獄に失敗したのだ。
沢木はその後も旅を続け、ロンドンに到着した。友人との賭けに勝ったことを証明するために、電話局を探し、電報を打とうとする。そのシーンで作品は締めくくられる。
 私はそこを出ると、近くの公衆電話のボックスに入った。そして、受話器を取り上げると、コインも入れずに、ダイヤルを廻した。
《9273-8682258-7398》
 それはダイヤル盤についているアルファベットでは、こうなるはずだった。W、A、R、E──T、O、U、C、H、A、K、U──S、E、Z、U。
《ワレ到着セズ》
と。
見事なラストである。自らの自意識やエゴイズムを滅却できた人は、すでにこの世にいない。現在生きながらえている人は、必ず何らかのエゴイズムを抱えて生きている。
それを沢木は、《ワレ到着セズ》という言葉で表現したのだ。第一便、第二便を読んできた読者は、このラストで泣き崩れるだろう。
本書に魅せられて、多くの若者が旅に出た。しかしほとんどの旅は浅薄なものだ。それは旅の持つ本質に気づいていないからだ。
旅の本質とは「自分の貨幣と言語が通じない場所に行く」という点にある。貨幣と言語は、これまでの自分が築き上げてきたものにほかならない。それが通じない場所に行くということは、全てが「外部」の環境にさらされることを意味する。
そうした環境では自己愛は成立し得ず、裸形の自分がさらけ出される。だから僕は、旅ほど人生を改変することに作用するものはないと思っている。旅の意味合いをこれほど鮮やかに描いた本は、他にはない。

人間は実践者になることで成熟する

これに関連して、1987年にフランスで公開された「ベルリン・天使の詩」という映画を紹介したい。映画としては凡作だが、メッセージは面白い。この作品では、天使は生の「認識者」、人間は生の「実践者」として描かれている。
主人公の天使は「認識者」として、生を営む人間を見守る立場だった。「認識者」でいる限りは永遠の生を保証され、ベルリンの2000年の歴史における、人々の喜びと悲しみを傍観し続ける。ここまでの様子は、モノクロの映像として表現される。
しかし主人公は、やがて一人の女性に恋をし、地上に降りる。すると「実践者」の立場に変わる。
実践者の立場は、辛く、苦しい。主人公は不老不死の能力を失い、血を流し、悩みながら生きる、有限の生を歩むことになる。ここから先は、カラーの映像として表現される。
社会の中で何も実践していないときは、人間は「天使」だ。しかしいざ、現実の生を生きようとしたときに、様々な困難や危険に晒される。葛藤し苦悩し、血を流さずにはいられなくなる。つまり「天使」ではいられなくなるのだ。
実践者になるということは、血を流したり、返り血を浴びながら、清濁併せ吞むことを意味する。人間は、認識者から実践者になることで真に成熟し、人生を生き始めることができる。
しかし世の中には、認識者にすらなれない人間が多い。「認識者」という土台なくして、良き実践者になることは絶対に不可能だ。かつて優れた認識者でなければ、優れた実践者にはなれない。そして認識者になるためには、まず教養を持つことが不可欠だ。
映画では、主人公がそうであったように「元・天使」のキャラクターが登場する。主人公は誰が「元・天使」であったかを見分けられる。それと同じように、目の前に読書体験を重ねた人がいれば、僕はその人が「かつて優れた認識者であった」と判断できる。
旅に出て、自分の言語と貨幣が通じない環境に身を投じるのは、否応なく実践者になることだ。その前段階として、認識者になるために教養がある。そうした文脈で捉えない限り、教養は単なる知識の羅列になってしまい、人生に作用することはないだろう。
最後の最後にアンドレ・ジッドの「地の糧」の文章を掲げよう。
 行為の善悪を≪判断≫せずに行為しなければならぬ。善か悪か懸念せずに愛すること。
 ナタナエル、君に情熱を教えよう。
 平和な日を送るよりは、悲痛な日を送ることだ。私は死の睡り以外の休息を願わない。
 私の一生に満たし得なかったあらゆる欲望、あらゆる力が私の死後まで生き残って私を苦しめはしないかと思うと慄然とする。私の心中で待ち望んでいたものをことごとくこの世で表現した上で、満足して──あるいは全く絶望しきって死にたいものだ。
(撮影:遠藤素子)
*終わり