「応仁の乱」は関係者全員が頑張って、最悪の結末を迎えた
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"関係者全員が頑張って、最悪の結末を迎えた"
なんかとても日本人らしい。日本人ってあからさまに手を抜いてモラルが低くて負けるよりも現場が頑張って技術を磨いたけど、トップが進む方向を間違えた、的な負けが多いイメージがあります。とても今の状況に近い。今日も又面白い視点の記事で、読むのもコメントするのも楽しいですね。
さて、応仁の乱の最大の謎の1つが、お互いに十万を超える大軍を動員しながら、11年の戦いの中で、何故ただの一度も正面から激突しての決戦が行われなかったということです。
普通、大軍が戦のために展開するなら、各地に城塞を築き、街道を抑えて軍の迅速な移動足らしめ、機動して相手の補給源や策源地を叩く、或いは要衝を中心に制圧地域を拡大し、敵を追い詰めるといったことをするはずなのですが、応仁の乱では全くそういうことをした形跡がないのですね。
そもそも軍の駐屯地からして、城や砦ではなく、普通の寺や民家を借り上げて、せいぜい空堀を堀った程度のものですから、お前らまともに戦争をする気があるのかとこっちが声をあげたくなるくらいです。
要するに本文の言葉を借りれば、関係者全員が、なんとか全面戦争を避けて平和的に解決しようと頑張った結果、ダラダラと11年も戦争が続くという最悪の結末になったのが、応仁の乱だったと言えるかもしれません。
そもそも、元々足利将軍家の後継者争いが発端とはいえ、実は当事者の兄弟仲は意外に悪くなく、今は仲違いしているけど、そのうち分かり合えるみたいなノリですし、足利義政の奥さんが日野富子というのは有名ですが、対する弟の義視の奥さんはその日野富子の妹。
結局どっちも身内なので、相手を殺してでもという気迫は全くなく、ともかく穏便に解決しようと、諸将を招いて悠長に連歌の会とかやったりしています。
その努力が結局京都を灰にし、戦乱を日本全国に広げることになったのですなら、なんとも皮肉なものですね。京都の老舗の人とお話していると「ウチ(ウにアクセント)はこの間の戦でいったん燃えたんです」という発言がよく出てきます。この場合の戦が第二次世界大戦ではなく、応仁の乱をさすということを知った時の衝撃といったらなかった(笑)それだけ近畿ではエポックメーキングな出来事だったのでしょうか。
”リーダーシップが機能せず、組織的な意思決定が行われなかった応仁の乱のような話題のほうが、今現実に働いている職場と重なるものが多いのでは”
だからいまどきの時代に読まれているのか。面白い視点ですね。この本読みたくなりました。