卓球少女と高校球児の取り組みは“正しい努力”か“虐待”か

2017/5/7
4月27日、我がスタンフォード大学のAthletic Department(体育局) で、「Bring your child to work day」なるイベントが開催された。
読んで字のごとく、子どもを職場に連れてきて、両親の働いている姿を見せたり、職場の同僚や同僚の子どもたちとの交流をはかったりするイベントである。
朝8時の朝食会から始まり、子どもを楽しませる企画が分刻みで進んでいく。その中に、我々の職場特性とも言うべき、興味深い企画があった。
スタンフォードのStudent Athlete(学生選手)とのパネル・ディスカッションである。
(撮影:河田剛)
パネリストは、フットボール選手2名、フェンシングのオリンピックメダリスト、そして水泳の関係者なら誰でも知っている、ケイティ・レデッキー選手であった。
以下は、彼女と子どもたちの質疑応答の一部である。
子ども(以下、K) オリンピックでメダルをとるには、どうしたらいいの?
ケイティ (以下、KL) 一つだけじゃなく、いろいろなスポーツを経験することだよ。私の場合は水泳と、もう一つだけだったけど、若いときにもう二つくらいできたら、もっとメダルがとれていたかもしれないと思うわ。
K どうしたら、スタンフォードに入れるの?
KL 同じ答えになっちゃうかもしれないけど、勉強もスポーツも含め、いろんなことに一生懸命、そして同時に取り組むことかな。そうすると時間をマネジメントしなきゃいけないから、そのスキルが身につくよ。今、ちょうどテストと練習を両立しなきゃいけない時期なんだけど、若いときにそれを経験していて良かったなと思っているよ。
K  どうしたら、ケイティみたいになれるの?
KL  とにかく、お父さんとお母さんの言うことを、よく聞くことね。あなたたちを愛している両親や家族は、いつも世界で一番良いアドバイスをくれるはずだから。
20歳にして6個のオリンピックメダル(金・5個、銀1個)を獲得している選手が言うことには説得力がある。
(撮影:河田剛)
その後も、突拍子もない質問や、子どもならではのかわいい質問が続いたが、子どもたちのキラキラした目と、一つひとつの質問に丁寧に答えるアスリートたちの姿勢が、非常に印象的であった。
(撮影:河田剛)

卓球に没頭するエリート少女

話を数カ月前に戻させていただきたい。
今年の初めに帰国した際に、偶然目にしたテレビ番組があった。
そこでは、国策として建てられた「ナショナル・トレーニングセンター」で、世界レベルで活躍する若いアスリートを集め、寝食をともにさせ、集中的なトレーニングや練習を行う「エリート・アカデミー」なるものが紹介されていた。
その中で、衝撃的なインタビューを見てしまった。
確か、卓球のジュニアの世界ランクがトップの女の子であったと思う。
彼女はインタビューで、「こちらに来てからは通信制の高校に通っているので、登校は週に1度でいい。だから週に6回も練習ができるんです」とにこやかに、また誇らしげに答えていた。
アメリカナイズ、過剰反応、いろいろな反論を覚悟で言わせていただきたい。
私はそれを見た瞬間、「これは“児童虐待”である」と思ってしまった。
親や指導者は、彼女に十分な選択肢を与えずに、競技に集中させることを強いているのではないか。
彼女の高校生活は、それに成長期にしかできないかけがえのない友だちとの経験は、どうなってしまうのだろうか。
また十分な教育を受けられないことに対する、将来的な不利益の責任は、誰が取るのであろうか。
卓球というマイナースポーツにおいて、現役引退後のセカンド・キャリアをどう捉えているのだろうか。
親や指導者が育った数十年前の社会のように、「嫁に行けばいい」とでも思っているのであろうか。
世界保健機関(WHO)では、児童虐待を、“18歳以下の子どもに対して起きる虐待やネグレクト”と定義している。
個人的な意見であるが、10代半ばで経験も思慮も浅いであろう少年少女に、正しい選択肢を与えないことは、虐待に等しいと私は思っている。
10歳でも、15歳の子どもでも、もちろん、しっかりした意思は持っている。
しかし、子どものときからそのスポーツしかさせてこなければ、あるいは勉強する時間や友だちと遊ぶ時間を削って練習しかさせてこなければ、選択肢の極端に狭い子どもは、「そのスポーツをもっとやりたい、続けたい」と言うはずである。
彼女の名前も覚えていないし、彼女がどういう家庭環境なのかもわからないが、特に家族ぐるみで子どもをバックアップしているようなケースでは、子どもは子どもなりに親や家族の期待に応えようとしてしまうものである。

10人の戦いは美談か、負担か

春に帰国した際は、私の大好きな高校野球のシーズンだった。
彼らの一心不乱に、一生懸命プレイする姿は、言い訳ばかりするアメリカ人を普段相手にしている私には、良いEye Candy(目の保養)である。
しかし、ここでも良からぬ場面、記録、報道が目に入ってしまう。
・196球の粘投
・連続完投記録
・延長引き分け、再試合での連投
前述のことに合わせて言うなら、“球児虐待”である。
一心不乱、一生懸命プレイする彼ら、特にピッチャーは、チームメイトやチームの勝利のために、「投げさせてほしい!」と必ず言うはずである。
それを、選手の将来のことを考えて、止めるのが指導者なのではないだろうか。
2017年春季東京大会決勝の早稲田実業対日大三高は平日の18時から開始され、延長12回の展開となり試合終了は22時6分。多くの観客が詰め掛けた一方、平日のナイター開催に批判も出た
このトピックに関して、もう一つの大きな問題は、メディアがこれを好意的に報道することである。
センバツ大会に、岩手から部員10人で甲子園出場を果たした学校(不来方高校)があったという報道を目にした。
これをメディアは言うのである。「部員10人の、爽やか全員野球」と。
10人でタイトなスケジュールの地方予選や甲子園大会を戦い抜くことは、1人の投手に負担をかけまくることが前提である。
アメリカでの“選手個人の将来を、指導者が潰す権利はない”という野球を見ている私には、これもまた“虐待“と映ってしまうのである。

アメリカと日本の価値観

「アメリカでは、〇〇〇〇だけどなぁ~~」
アメリカに住んでいたのは、10年以上も前の私の友人Sの口癖である。
人のふり見てナントカで(そう感じる読者の方は少ないと思うが)、私はできるだけこの表現を避けるようにしている。
理由は簡単、「いやいや、ここ、日本だから」で、その会話は終わってしまうからである。
ここに寄稿しているうちの9割はそういう内容だが、意図的に、そのような表現は避けている。
しかし、日本のスポーツ界を背負って立つかもしれないアスリートが“虐待”という危機に晒されているのだとしたら、話は別である。
前述の卓球、高校野球のケースは、「アメリカでは“虐待”としてとられかねない」と声高に訴えたい。

“クレイジー”な考え方

冒頭のケイティの言葉のように、“両親の言うことを聞くこと”は、日本で成長期にある若いアスリートにとって、100%有益なのであろうか。
また、アスリートの成長に不可欠な指導者のアドバイスは、本当に適切なものだろうか。今回のケースを見る限り、疑問が残ってしまう。
ここまでの連載でも指導者の成長について話をしたことがあるが、アスリートを取り巻く環境という意味では、親や家族の教育・成長も大事なのではないか。今回のいくつかのケースや、ケイティと子どもたちのやり取りを見て、強くそう感じた。
私の連載を読んで下さっている多くの方が、人の親なのではないかと思う。
具体策は改めて提案させていただくとして、まずは一人でも多くの方に、このような考え方があることを周知させたい。
読者の皆様にも、もし、ご賛同頂けるなら、この(日本では)少しクレイジーとも言える考え方を拡散していただけたら幸いである。
(バナー写真:BFP/アフロ)