【大西健丞】今なら話せる「鈴木宗男事件」の真相
2017/3/1
今、世界レベルで飛躍する、新時代の日本人が生まれ始めている。本連載ではビジネス、アート、クリエイティブなど、あらゆる分野で新時代のロールモデルとなりえる「グローバルで響いてる人の頭の中」をフィーチャー。経営ストラテジストの坂之上洋子氏との対談を通じて、各人物の魅力に迫る。
第6回のゲストは、世界各地の紛争や自然災害の現場で支援を行ってきた、国際協力NGOピースウィンズ・ジャパンの代表理事兼統括責任者の大西健丞氏だ。
第1回:
3.11でも大活躍。「NGO界の巨人」が生まれるまでNGO、常在戦場
坂之上 スタジオジブリから『NGO、常在戦場』という本を出されてますね。
大西 えぇ。あの本はジブリの鈴木敏夫さんから、「いつ死んでもおかしくないところにいるんだから、生きてるうちになんか書きなさい」と言われて、ジブリの月刊誌に連載した原稿がもとになっています。
坂之上 「熱風」ですね。
大西 そうです。イラク戦争の現場でも、「戦争の現場にいるのになんで俺、こんなことやってんねやろ」と思いながら原稿書いてました。でも、鈴木さんにノーとは言えないし、みたいな(笑)。
坂之上 『NGO、常在戦場』はものすごい迫力がある本でした。あれを書き始めたのは、鈴木宗男さんとの事件の前ですか?
大西 あとですね。鈴木宗男さん事件は2001年から2002年にかけてでしたから。
坂之上 覚えてらっしゃらない方も多いかと思いますが、大西さんが日本全国で有名になったのは、鈴木宗男さんとの一件ですよね。
大西 もう、有名になりたかったわけじゃ、全然ないんですけどね(苦笑)。
坂之上 どういう経緯だったのか皆さんにかいつまんで教えて頂けますか? 今なら言える話もあるのでは?
坂之上洋子(さかのうえ・ようこ)
経営ストラテジスト/作家
米国ハーリントン大学卒業後、建築コンセプトデザイナー、EコマースベンチャーのUS-Style.comマーケティング担当副社長を経て、ウェブブランディング会社Bluebeagleを設立。その後同社を売却し、中国北京でブランド戦略コンサルティングをしたのち帰国。日本グローバルヘルス協会最高戦略責任者、観光庁ビジットジャパン・クリエイティブアドバイザー、東京大学非常勤講師、NPOのブランディングなどを行った。『ニューズウィーク』誌の「世界が認めた日本人女性100人」に選出。
なぜ宗男さんが怒ったのか
大西 う~ん。まぁ、『NGO、常在戦場』にも書いたので、読んでもらえたらと思うんですけど。僕らは米国の9.11のテロの前からアフガンにも関わってたんです。
その当時はタリバンのことを実際に知っている人間なんて日本に少なくて、それでメディアに取り上げられたりしていたんです。鈴木宗男さんからすれば、「この若造はなんだ、チョロチョロしやがって。外交とか国際協力は俺の分野だ」とおもしろくなかったと思うんですよ。まずそれがベースにあったと思う。
それで次に宗男さんが「難民を助ける会」というNGOをいじめだしたんです。僕はその事務局長がいわれもないことでボロクソに言われているのを聞いて、ちょっと座視できなかった。
でも僕はね、そもそも、文句を言いに行くんじゃなくて、緩衝材として入ろうとしたんです。
坂之上 でも逆に発火物になってしまった?(笑)
大西 そうなんですよ。番号を教えたこともないのに、いきなり僕の携帯に電話をかけてきて、僕が出た瞬間、「貴様ー!!」って怒鳴られて。
坂之上 突然にですか?
大西 そう。ビビらせて黙らせようと思ったんじゃないかな。NPOの若造だし。
坂之上 でも大西さんは政治家と対立するつもりはなくて、むしろ外務省と経済界とNGOがバラバラに活動するのは効率が悪いから、3者をまとめようとしていたんですよね?
大西 そうです。その3者が結びついたのが「ジャパン・プラットフォーム」ですね。今も活動しています。
坂之上 じゃあ大西さんの何がそんなに気にさわったのでしょう?
大西 発端は、僕が取り上げられた朝日新聞の「ひと」欄の記事です。取材を受けていろいろしゃべっているうちに、「どうして大西さんはイギリスの大学院まで出たのに、国連とかオーソリティーな組織に入らなかったんですか」と聞かれて、正直に答えてしまったんですね。
坂之上 正直にって?
大西 「僕が育った大阪市北区というのは、右手には大塩平八郎中斎先生の記念碑、左手には山片蟠桃(やまがた・ばんとう)という町の中で最初に市民といわれた人の墓があったところですから、もともとあんまりお上を信用しない土地柄です。
だから官に就職するというのは頭にありませんでした」と答えたら、「お上の言うことは信用しない」というところを強調したタイトルの記事にされてしまったんです。それを見た宗男さんが怒ったわけです。
大西健丞(おおにし・けんすけ)
ピースウィンズ・ジャパン代表理事/シビックフォース代表
1967年大阪府生まれ。上智大学卒業。英ブラッドフォード大学で平和研究学部国際政治・安全保障学修士課程修了。1996年に国際協力NGO「ピースウィンズ・ジャパン」を設立。2006年、ダボス ヤング・グローバル・リーダーに選出される。2008年には、災害即応パートナーズ(現 シビックフォース)を発足。3・11での救助活動で多大なる貢献を果たした。
自分の庭を荒らしている
坂之上 そんなことだけで怒んないでしょ~。
大西 う~ん、でも事実そうだったみたいなんですよね。その少し前には毎日新聞にも、僕の名前が出たということも影響があったかと思います。塩崎恭久さん、河野太郎さん、下地幹郎さんという3人の政治家がタリバン政権崩壊後のアフガニスタンに行きたいというので、現場を案内したんですよ。
坂之上 案内したって……。そんな簡単そうに(苦笑)。
大西 そのとき彼らがアフガニスタン北部を占領していたドスタム将軍という人と会いたいというので、僕が仲介したんです。彼は伝説の将軍で、当然、タリバン政権崩壊の寸前まで反政府側だったので、外務省も大使館も一切連絡したことがなかった。
でも僕は彼を知っていたので、その場で本人に電話して、「OK出ました、行きましょう」という調子で引き合わせたんです。それで河野太郎さんが毎日新聞の記者に、「NGOの大西は外務省も知り得なかったドスタムの携帯番号を知っていたばかりか、外務省が無理だといった面会を電話一本で可能にしてしまった」という話をした。
それが僕の知らないうちに毎日新聞にデカデカと出てしまって、それを見た宗男さんがまた気分を害されたみたいです。これは後から聞いた話なんですけど。
坂之上 それは、つまりメンツをつぶしてしまったような?
大西 まあ、自分の庭を荒らしている、ってことだったんでしょうね。
坂之上 う~ん。
大西 でも僕たちは、新聞に出たことも、彼が怒っていることも気にかけず、政府主催のアフガンの復興会議に先立って、「アフガン復興NGO会議」というものを開いたんです。
外務省も非常に良いと言ってて、「復興にはNGOも重要な役割を果たすから、外務省の草の根予算でアフガンのNGOたちを呼ぼう」ということになったんです。ところがこれも、また宗男さんが途中で介入してつぶしてしまおうとしたんです。
「そんなことは前例にないだろう、まかりならん」って。
でも僕らとしてはもうアフガンのNGOを呼んでしまっている。今やめると言ったらグローバルで信用を失ってしまう。だから2000万円ぐらいかかりましたけど、われわれピースウィンズが負担してアフガン復興NGO会議を決行したんです。それがテレビや新聞で大きく取り上げられたんですよ。
坂之上 なんとなく、それ毎日のニュースだったような気がします(笑)。
大西 そう。今思えば、若造がつっぱってた部分もあります。でも、僕らからしたら、「日本のためにもなることなんだから応援してくれよ、足を引っ張るなんて、逆だろう」と思って、理不尽な話じゃないか!ととらえてたんです。
坂之上 それはそうですよね。
大西 ともかく、翌日に政府主催の会議を控えた夜中の1時半に、いきなり外務省の担当者から電話がかかってきて、「君の出席はやめてもらう」と言われてしまったんです。僕は当然、「そんなことはできません」と抵抗しました。
坂之上 それ怒るの当然ですよね。
大西 はい。ここで白旗を揚げたら、少なくともこの先10年間は日本のNGOの存在が消えてしまうだろう。だから、負けるわけにいかないと思ったんです。
坂之上 そもそもこじれた原因は、大西さんが生意気だったから? 本当にそれ以外の理由はないんですか?
大西 まともな理由は聞いたことがないですね。本当に理由にならない理由しか聞いたことがない。当時の外務省の人たちは、「大西君が間違ってるとは思わない。でも鈴木さんは理屈が通じない人だから、頼むから言うとおりにしてくれ」と言ってました。外務省からすればトカゲの尻尾切りで一件落着かもしれないけど、ここで屈服したらNGOがすたると思いましたね。
国籍を捨てる覚悟だった
坂之上 そんなに鈴木宗男さんの権力はすごかったんですか?
大西 まあ、当時は、影の外務大臣とも言われてたし、外務省は鈴木さんの言うことはどんなことでも基本的にノーと言えなかった。人事をいじられて何人かクビになってますし、それぐらい外交分野、特にODAでは実力者でした。
坂之上 そんな大物相手にどうやって対抗しようと?
大西 もうこれは世論に訴えるしかないと思いました。今までひどいことをされてきたことは、ぜんぶ記録を残していたので、問題の本質をオープンにして世に問おうと。
選択肢を明瞭にして、AとBとどちらが正しいでしょうかって国民に訴えかければ、たぶん日本国民は正しい選択肢を選ぶだろうと思ってそこに賭けました。もしそれでダメだったら日本国民であることをやめて、クルド人になろうと思ってた。本気で(笑)。
坂之上 国籍を捨てる覚悟だったのですね。
大西 それで、いきなり記者会見を開きました。「僕が会議に出席できなくなったのは、鈴木宗男さんの圧力です」って話をしたんです。そしたら記者たちが口開けて、その場がシーンとしてしまった。
坂之上 シーン、ですか。
大西 はい。当時、宗男さんはすごいパワーがあったので、新聞記者はみんな「それ言っちゃダメだよ」「それを言ったら、君は終わりだ」みたいな反応なんですよ。芸能記者だけが「そうでしょ、そうでしょ!」と(笑)。
坂之上 芸能記者もいたの?
大西 えぇ。別件、田中真紀子さんと鈴木宗男さんがバトってたから、ワイドショーネタとしては最高ですからね。でも記者会見が終わってしばらくは、これを報道するかどうか、各社ともちょっと様子見してたみたいです。
坂之上 でも最終的に新聞も取り上げたんですよね?
大西 はい。それから、大変でした。黒塗りのスモークシールドのベンツに追いかけ回されたり、ヤクザ風の人間に尾行されたり、いろいろありました。権力と戦うってヤバい(笑)。
坂之上 いや、ちょっと笑い事じゃないですよ。怖くなかったんですか?
大西 いや~。戦争しているところに長くいましたからね。
イラクでやってたことを、そのまま東京でやってました。たとえば携帯を使うのをやめて、衛星回線に替えたり。これなら日本の政府はたぶん解読できない。アメリカのCIAならできるけど(笑)。
坂之上 衛星回線って……(笑)。スパイ映画みたいですね。
大西 当時は必死ですよ。ワンボックスカーの中で寝たり、転々としてました。僕たちは海外の危険な地域で活動してたから、いろんな危険回避の技術を駆使しました。
普通の人だったら、精神的に追い詰められて負けちゃいますよね。権力相手に戦うのは。
実はウマが合ったかもしれない
坂之上 それで、どうやって事態を幕引きにしたのですか?
大西 あのとき小泉政権は宗男さん側の立場を取ったために、支持率が78%から42%、38%に落ちてきたんです。それで僕は当時の政権の要になる人に声をかけたんですよ。
「小泉政権にダメージを与えるつもりはない」と。「ただしどうしても宗男さんをかばって、われわれだけを悪者にするなら、録音もあります。最後の最後まで闘い抜きます」といって政権にメッセージを送ったんです。
坂之上 急にそんなこと言われたら怖いだろうな。
大西 突然声かけられて「最後の最後まで闘い抜きます」ですからね。僕は「すいません、突然」と言いましたけど(笑)。これが功を奏したかどうかはわかりませんが、その後で小泉政権の態度が急激に変わったんですね。
坂之上 そもそもなんですけど、鈴木宗男さん、なんで逮捕されたんでしたっけ?
大西 やまりんという会社から賄賂をもらったという、あっせん収賄罪ですよ。
坂之上 じゃ、この件とは全然関係ない?
大西 全然関係ないです。でも宗男さんは私との戦争でスキができたのかもしれません。宗男さんが「水に落ちた犬」になったとたん、今まで彼に頭を下げていたやつらが一斉に宗男さんをたたき出した感じです。
坂之上 とにかく話の全てが怖い!(苦笑)
大西 でも、これで宗男さんは沈むと思ったけど、沈まなかったのは素晴らしいと思いましたね。あのバイタリティは見習うべきだと思う。
坂之上 時間が経ってそういう気持ちに?
大西 実はね、3年ぐらい前、国会裏のホテルのレストランでばったり会ったんですよ。ギョッ、としました。
そうしたら、いきなり彼、立ち上がって笑顔で握手を求めてきたんですよ。「おお、大西くん、元気か?」と言いながら。
いや、マジで、すげ~~~と思いました(笑)。
坂之上 宗男さん大物すぎる(笑)。
大西 でももともと僕たちは決定的な対立があったわけじゃないんですよね。間に入った人たちがミスコミュニケーションを繰り返したせいで亀裂が生じたとこもあって。
実は宗男さんほど発展途上国に足を運んでた国会議員は本当にいなかった。だから彼が「自分の縄張り」という発想じゃなくて、もうちょっと違う考えを持ってくれていたら、実はウマが合ったかもしれない。
坂之上 今、振り返ってこの一件についてどう思われているのですか?
大西 え? そうですね~。いや、だから、もうちょっと丁寧なごあいさつが必要だった、かな、と(笑)。
坂之上 大人になってる(笑)。ボタンの掛け違いがなければ、めっちゃ仲良かったかもしれない?
大西 そう。下手したら外務省にとっては最大の、いや、最悪のコンビになったかもしれませんね(笑)。
(構成:長山清子、撮影:遠藤素子)
※続きは明日掲載します。