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【竹内純子】原発の「安全神話」とは何だったのか

NPコミュニティチーム
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    国際環境経済研究所 理事・主席研究員

    先日上梓した新著をご紹介する機会を頂きました。Newspicks編集部の皆様、ありがとうございます。
    あの事故に何を学ぶべきなのか、あらためて考えるきっかけにしていただけたら幸いです。


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    K-BRIC&Associates,Ltd 代表取締役社長 兼 プリンシパル

    竹内さんの問題意識は極めて正しい。
    「このままでは日本は『戦略なき脱原発』に漂流していき、その結果責任を国民が負わされることになる。」
    これが現状を表す全てです。
    刻一刻として進まない再稼働の政治の道具化。2030年に完全撤退宣言を目論む政党。膨大な書類審査と学術論でいたずら時間を浪費する安全性検討。なし崩し的に再稼働を目論む官僚。
    「誰もがハッキリ方向を決めない」中で部分最適を実施しているとこうなってしまう。
    いっそのこと国民投票をしたらどうですか?
    白黒決まれば、絶対に安全とは言えないリスクへの地域対策、あるいは明確な廃炉技術への投資など、先が見えてくる。
    それが出来ないなら、思いっきりのいいトランプさんに独断と偏見でもいいから決めてもらおう。


  • エネルギーアナリスト/ポスト石油戦略研究所代表

    "原子力発電の利用をやめるという選択を国民がするのであれば、それも一つの道であり全く否定するものではありません。ただ、原子力技術の利用をやめることによって他のリスクが増大することはないか、原子力技術の利用に伴うリスクはこれ以上小さくすることはできないのかを徹底的に考えるべきでしょう。"

    という澤さんの言葉はまさにその通りだと思います。

    すくなくとも、日本という国が原子力を辞めることによるリスクとコストは、日本のみならず全世界にも大きな影響を及ぼしますが、その検討も覚悟もなく単に「辞める」では本来「無責任」と私は思いますが、そうではないと考える方との認識ギャップは思考の出発点が違うからだと思います。

    それは、元々原発が「ない」世界を出発点に考えるのか、それとも「ある」世界を出発点に考えるのかの違いです。

    「ない」世界が出発の人にとっての意志決定は「ない」→「ある」で、「ある」ことのリスク・コストに関しての責任だけを感じます。もともと「ない」ものなので、脱原発によって発生するリスク・コストは元々世界が持っていたものであり、何の責任もなく享受すればいいように感じられます。

    一方、「ある」世界を出発点に考える人にとっての意志決定は「ある」→「ない」の方で、「ない」ことによるリスク・コストに関して責任を感じます。もちろん「ある」を継続するリスク・コストもあるわけですが、その意志決定は過去になされたものを正規の手続きで継承してきただけなので意味合いが異なります。

    「ない」という世界の想定は、時間軸(日本が原発を持つ前の時代、震災後の原発が全てor殆ど止まっている今の時代)という意味でもあり、「原発のコストとリスクは際限がないのでどう考えてもムリ」という前提の問題でもあります。

    私は、日本には"不幸なことに"依然として稼働していない原発がまだたくさんあるために、日本には"再稼働"という選択の自由が存在していると感じています。この選択の余地があると考えるからこそ、脱原発による「ない」リスク・コストについて大きな責任を感じざるを得ないのです。

    前提の置き方で考えは大きく変わります。だから原発の議論は決着が付かない。

    そもそも日本がなぜ原発を持ったのかについて、もっと思いを馳せるべきかなと。

    ヒント
    「原発・正力・CIA」有馬哲夫著 新潮新書 2008.2.20


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