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先日上梓した新著をご紹介する機会を頂きました。Newspicks編集部の皆様、ありがとうございます。
あの事故に何を学ぶべきなのか、あらためて考えるきっかけにしていただけたら幸いです。
確かに、原子力の安全性への過信、自然の脅威に対する謙虚さを持たないまま、また「今回は厳しい安全基準がクリアされた」などと慢心して原発の再稼働を進めるようであれば次の事故は避けられないでしょう。再稼働するのであれば、原点に立ち返って、「どこまでやっても絶対安心ということはない」のだということを前提に、仮にそれが0.00001%未満の確率であっても、起きる可能性がある事故にどう備える積りなのか、そして誰が責任を負っているのかを明確にすべきでしょう。その意味で、著書でこういう検証がなされることは重要だと思います。
"原子力発電の利用をやめるという選択を国民がするのであれば、それも一つの道であり全く否定するものではありません。ただ、原子力技術の利用をやめることによって他のリスクが増大することはないか、原子力技術の利用に伴うリスクはこれ以上小さくすることはできないのかを徹底的に考えるべきでしょう。"

という澤さんの言葉はまさにその通りだと思います。

すくなくとも、日本という国が原子力を辞めることによるリスクとコストは、日本のみならず全世界にも大きな影響を及ぼしますが、その検討も覚悟もなく単に「辞める」では本来「無責任」と私は思いますが、そうではないと考える方との認識ギャップは思考の出発点が違うからだと思います。

それは、元々原発が「ない」世界を出発点に考えるのか、それとも「ある」世界を出発点に考えるのかの違いです。

「ない」世界が出発の人にとっての意志決定は「ない」→「ある」で、「ある」ことのリスク・コストに関しての責任だけを感じます。もともと「ない」ものなので、脱原発によって発生するリスク・コストは元々世界が持っていたものであり、何の責任もなく享受すればいいように感じられます。

一方、「ある」世界を出発点に考える人にとっての意志決定は「ある」→「ない」の方で、「ない」ことによるリスク・コストに関して責任を感じます。もちろん「ある」を継続するリスク・コストもあるわけですが、その意志決定は過去になされたものを正規の手続きで継承してきただけなので意味合いが異なります。

「ない」という世界の想定は、時間軸(日本が原発を持つ前の時代、震災後の原発が全てor殆ど止まっている今の時代)という意味でもあり、「原発のコストとリスクは際限がないのでどう考えてもムリ」という前提の問題でもあります。

私は、日本には"不幸なことに"依然として稼働していない原発がまだたくさんあるために、日本には"再稼働"という選択の自由が存在していると感じています。この選択の余地があると考えるからこそ、脱原発による「ない」リスク・コストについて大きな責任を感じざるを得ないのです。

前提の置き方で考えは大きく変わります。だから原発の議論は決着が付かない。

そもそも日本がなぜ原発を持ったのかについて、もっと思いを馳せるべきかなと。

ヒント
「原発・正力・CIA」有馬哲夫著 新潮新書 2008.2.20
竹内さんの問題意識は極めて正しい。
「このままでは日本は『戦略なき脱原発』に漂流していき、その結果責任を国民が負わされることになる。」
これが現状を表す全てです。
刻一刻として進まない再稼働の政治の道具化。2030年に完全撤退宣言を目論む政党。膨大な書類審査と学術論でいたずら時間を浪費する安全性検討。なし崩し的に再稼働を目論む官僚。
「誰もがハッキリ方向を決めない」中で部分最適を実施しているとこうなってしまう。
いっそのこと国民投票をしたらどうですか?
白黒決まれば、絶対に安全とは言えないリスクへの地域対策、あるいは明確な廃炉技術への投資など、先が見えてくる。
それが出来ないなら、思いっきりのいいトランプさんに独断と偏見でもいいから決めてもらおう。
原発とは、少なくともこれまで、ウランを反応させて熱源としてお湯を沸かしてタービンを回して発電するものです。問題は放射線を大量に出すことと、燃料が熱くなり過ぎることです。そこで発電上問題となるのは冷却する「技術」ですが、そんなものは原発を止めてしまえば不要でしょう。原発が必要だという人は、原発は燃料(の購入)が安いことをもって費用が安いといい、そのあと「技術的」な問題として安全の向上を語る場合が多いように見えます。しかし、安全性を高めようとすれば費用も高くなります。安い原発と安全な原発はトレードオフであり、後者が軽視されたため結局事故が起きたのだろうと思います。

追記:もちろん、より重要なのは廃炉や使用済み燃料処理の技術です。しかし、それに燃料再利用技術を加えても、これらの技術の重要性と既存原発を再稼動させるかどうかの判断はほとんど関係ないものでしょう。
予約して、買いました、読みかけてます。
原発問題は、島国のエネルギー問題をどうするのかという観点と、敗戦国がプルトニウム保有を認められた日米原子力協定の「奇跡」をどう考えるのかの2つの観点があるのかと思います。
科学の世界も経済・ビジネスも「絶対」はない。だから、「絶対安全」などあり得ない。しかし、政治的には「絶対」が求められる。法律的な判断も時にそうなる。
だから、周辺住民から「絶対安全か」と迫られるとNoと言えばそこで話は終わる。確率的に僅少との議論は、過去50年のスリーマイル島、チェルノブイリ、福島第一の3回あると主張されれば、母集団や発生原因のことを説明しても、心情的に説得は不可能になる。
全ての人々に対して、論理的にも心情的にも納得できる新たなロジックが求められていると思います。
>わが国が化石燃料資源に乏しく、エネルギー安全保障の確保は国としての最優先課題の1つであること、高まる温暖化対策の要請を考えれば、原子力発電というオプションは軽々に手放すべきではないと考えていますが、わが国に原子力技術を扱う資格がないのであれば、そのオプションは諦めるよりほかありません。しかし、もし当面この技術を利用していくのであれば、いかに安全性を高めて使うか、そのメリットを最大限国民社会に生かすかということを考えなければなりません。

・いかに安全性を高めるか :規制の充実と合理化・効率化
事業者の自主的安全性向上の取り組みの強化(現場の活力・人材や技術の確保、技術開発の継続・発展など)
・いかに事故に備えるか :避難計画の充実、原子力損害賠償制度の改正
・いかに放射性廃棄物の問題を克服するか :地元合意のあり方に関する議論の促進

一番重要なのは、有事があったとしても許容可能なリスク内に収まるかということ。誰かの命や生活が脅かされるような事態になる可能性が高いのであれば、脱原発やむなしなのだと思います。経済合理性がなくなって初めて事業者側は本気で考えるという歴史が繰り返されるのは悲しいところ。


>新規制基準に合格というお墨付きを得ることが目的化してしまっては、安全性向上の努力はそこで止まってしまい、新たな安全神話が生み出されてしまいます。わが国は規制基準の大幅な引き上げは行いました(これが“十分”かどうかについてはもちろん議論の余地があります)が、事業者の自主的安全性向上への取り組みを今後継続し、充実させていくことが必要です。原子力発電所の安全に第一義的な責任を負う事業者がその責任を徹底的に自覚し、自主的な安全性向上の取り組みを維持・継続しなければなりません。

おっしゃる通りです。

仕事柄、福島第一原発作業員の健康管理に関わる機会もあるため、是非読んでみたいと思います。
生命倫理に関する議論と近しいものを感じますね。ご著書拝読します。
福島はまだ廃炉までのロードマップも立っていない。使用済み燃料の廃棄先も棚上げ。廃炉コストも今後いくら必要となるか分からない。
先ずは福島の廃炉を完了させ、それから得たものを整理した上でないと、原発を今後どうするか次の検証には進めないでしょう。福島はそれだけ日本という国にとって大きな事故であり、教訓です。
原発の検証と同時に、代替手段の検討も迅速に進める必要があります。日本は火山が多く地熱発電が効率的にできる国。これも有効な手段の一つです。また送発分離を更に推進すればさらに電力が生まれるでしょう、