【池田純】組織にしがみつかず、自分にしかできないことをやる

2017/2/24
充実したキャリアを歩んでいる人たちは、悩みや不安をどのように克服し、何を拠りどころにして、これまで歩んできたのだろうか? NewsPicksとグロービス経営大学院は昨年11月、横浜DeNAベイスターズ前代表取締役社長の池田純氏をメインスピーカーに招いて特別セミナーを実施した。
35歳でプロ野球の球団社長に就任され、5年間で観客動員数を107万人から194万人へと180%増加。球団単体での売上を52億円から100億円超へと倍増させ、赤字続きだった経営を立て直した池田氏。
池田氏には「キャリアの転換点では、どのような意思決定があったのか」「どのような環境・経験が成長の源になったのか」など、様々な角度から自身のキャリアについて語ってもらった。(全2回)

5年目でやっと結果を出せた

みなさんこんにちは。池田純と申します。少し前までは池田純という名前の前に横浜DeNAベイスターズ社長の肩書も付けることができたのですが、いまは退任した身ですので(プロフィルに関して)個人名で書かせていただいております。
本日のテーマは「自分にしかできないことをやろう」です。
ここにいらっしゃるみなさんは組織に属されている方が多いかと思いますが、私は組織に所属しながらも、自分にしかできない仕事をすることを常に意識して、組織にしがみつかない生き方をしてきたつもりです。
本日はそんな私のキャリアや組織への向き合い方についてお話をさせていただければと思います。
最初に、私の最近の状況について、簡単にご説明をさせていただきます。
私はこの間までプロ野球の球団、横浜DeNAベイスターズの社長をしていました。
2011年末に就任しましたが、当時は年間の観客動員数が110万人に満たない状況でした。しかも、ちゃんとしたデータを取っておらず、数字の信憑(しんぴょう)性も怪しいものでした。
ただ、私が社長となりマーケティングを活用した施策を打ってからはどんどんお客さまも増え、2016年には観客動員数は194万人に達しました。
横浜スタジアムはキャパシティーが2万9000人ほどの球場で、ホームゲームは全部で72試合なのですが、計算してみると今は96%ぐらいの稼働率となっています。
今は全くチケットが取れない状態になっていて、昨年は社長だった私も、1カ月ぐらい前に「チケットが欲しい」と言わないとチケットが取れないという大変な事態になっています。
また、チームもずっと下位に低迷していましたが2016年には3位となることができました。
スポーツビジネスの世界では「勝たないとダメだ」「勝つことが最大のファンサービスだ」と言われていましたが、私はその考え方にパラダイムシフトを起こすことができたと思っています。
日本のプロ野球はアメリカとは違ってマーケットがそれほど活性化していません。だから、球団にお金がたくさんあっても、よその球団の選手をどんどん取ることはできません。
私が最初にベイスターズの社長になった時も、その時のリソースではいきなりチームを強くすることはできない状況でした。そのため、私は経営努力をひたすら重ねました。具体的には野球を見に来るお客さんではなく、横浜市民の野球への接点を増やすようにしました。
横浜市民は370万人いますが、そのなかでも野球を好きな人は恐らく20%くらいです。そして、その20%の人たちをマーケットにしているとすぐ限界が来てしまいます。
だから、370万人の横浜市民にベイスターズが届くような接点を、独自のビールを作ったり、広告を面白くしたり、イベントをやったり、サーカスを呼んだりして、あらゆる角度から作りました。
その結果、球場に来るお客さまを増やすことができました。満員の球場になれば、選手は目立ちたがりなので「恥ずかしいプレーはできない」と考えるわけです。
また、その間にもちろん組織も整えました。健在な経営になれば、選手にも社員にも給料がしっかり払えて、いい人材が取れます。
組織を強くすれば必ずチームは強くなるだろう、という信念でやってきて、5年目にやっと結果を出すことができました。
実はこの目標は全て社長になる前に立てたものです。そして、2016年に全て達成できたので、社長就任から5年後に私は退任させていただきました。
組織に残ることもできましたが、ここから先は「自分にしかできないことが、だんだん少なくなっていく」と考えました。
この状態で次に渡してあげることが、自分にも後任の経営者にもいいと思い、5年で退任することにしました。
池田純(いけだ・じゅん)
1976年1月23日生まれ。早稲田大学商学部卒業後、住友商事株式会社、株式会社博報堂を経て独立。2007年に株式会社ディー・エヌ・エーに参画し、執行役員としてマーケティングを統括する。2012年、株式会社ディー・エヌ・エーによる横浜ベイスターズの買収に伴い、株式会社横浜DeNAベイスターズの初代社長に就任。2016年まで5年間社長をつとめ、コミュニティボール化構想、横浜スタジアムのTOBの成立をはじめ、様々な改革を主導し、観客動員数は107万人から194万人へ5年間で180%へ増加。球団は5年間で単体での売上が52億円から100億円超へ倍増し、黒字化を実現した。著書に「空気のつくり方」(幻冬社)、「しがみつかない理由」(ポプラ社)がある。

住友商事、博報堂

次に私のこれまでの経歴についてお話しします。私は中学の時はオリンピックを目指して水泳ばかりやっていました。
ただ、けがをしてしまい、高校に入ったはいいものの3年間を遊んで過ごしてしまいました。ただ、高校3年の夏に死に物狂いで勉強をして、一応早稲田の商学部に入りました。
早稲田に入ってからも好きなように過ごしていましたが、どうにか英語だけは話せるようになっておきたかったので、自分でお金を貯め、80万円の休学の費用を払って、オーストラリアにワーキングホリデーで行きました。
ただ、休学をしたので帰国後はみんな就職をしており、自分が就職活動をするときには周囲に誰も友達がいない状態でした。その中でもどうにか住友商事に入りました。
入社したときは「とりあえず人気の会社に入れたからいいかな」「オーストラリアに1年行ってきて英語もしゃべれるようになったので、商社もいいかな」くらいにしか思っていませんでした。
ただ、その中でも、私はずっとBtoCの生活に近いビジネスをやりたいと思っていました。学生時代から映画や音楽は大好きでしたし、コンビニに行くこと、ヒット商品を見ること、いろいろな世の中の流れや世の中の空気の移り変わりを感じることが大好きだったからです。
住友商事では、ちょうどジュピターテレコムや、サミットのようなBtoCビジネスがスタートしていたので、そうした部門への配属を希望しました。
ただ、ふたを開けたら配属部門は鉄でした。鉄はこれまでも社長などを輩出しており、エリートコースだったのですが、10年目まではみんな同じような仕事をやり、部署からは一生出られないと言われていました。
このとき、自分としては「ちょっとつらいな」と思い、初めてキャリアについて真剣に考えました。
また、住友商事は2年目になると一気に給料があがり、10年目くらいに海外赴任をすると、何千万も貯めることができると聞いていました。
このような状態になると会社も辞められなくなりますよね。なので、なるべく早く住友商事は辞めようと思いました。
その後、博報堂に入りマーケティングの仕事を本格的に行うようになりましたが、とても楽しかったです。
博報堂は約3年間勤めました。特に印象的だった仕事に、内閣府や国土交通省などのコンサルティングがあります。
当時はアメリカのシンクタンクなどに行き、ジェラルド・カーティスのような著名な先生のインタビューをしました。
海外から日本がどう見られているか、逆に日本をどう海外に見せるかといった政府広報の戦略などを作っていました。
そして博報堂を辞め、その時の上司だった人とコンサルティング会社を作りマーケティングを中心とした企業再生のビジネスを始めました。
どの会社に関わっていたかは守秘義務があるので明かせませんが、企業再生においてクライアント企業に入り込み、マーケティングや広報など全て任せてもらっていました。

独立、そしてDeNAに

ただ、ある時その上司から突然「お前、もう辞めろ。もう自分1人でやっていけ」と突き放されてしまいました。
当時は、いきなりやることがなくなり戸惑い、孤独感にさいなまれましたが、なんとか自分で会社をつくり営業をしていました。そんななか、クライアントの一社として始まったのが、まだ小さかったDeNA(株式会社ディー・エヌ・エー)との関わりです。当時はマザーズに上場する前でした。
午前中はDeNAにいて、午後は別の仕事をする日々を繰り返していました。
そんな中で、DeNAもどんどん大きくなり、当時はPCからモバイルにメディアがシフトしていく時代でもありましたので、その広告宣伝もどんどんやろうという話になりました。
そうして、DeNAに広告の部隊とか、マーケティングの部隊、広報の部隊はこうしたらいいんじゃないかという提案をしていたのですが、最終的にはあなたがやってという話になりました。
当時は、自分ひとりの力にそろそろ限界を感じていたころでもありました。
そこで、DeNAに30歳ぐらいで入社し、執行役員としてマーケティングの統括を行っていました。具体的には広告の出し入れ両方を見ていたほか、いろいろな事業の数字をいじったり、分析したりしていました。
マーケティングをずっとやっていく中で、NTTドコモさんとジョイントベンチャーをつくるという話になりました。当時はガラケーでドコモさんがすごく隆盛を極めていた頃です。
結果、DeNAが51%、NTTドコモが49%の出資をして会社をつくりました。しかし、会社をつくったはいいですが、事業をどうするかという話が全くなく、このときに一から事業を立ち上げるという経験を初めてしました。
これがエブリスタという会社で、小説や漫画、イラスト、写真、レシピ、俳句などさまざまなコンテンツを投稿・閲覧できるサイト「E★エブリスタ」を運営していました。
この会社も、立ち上げて1年でどうにか黒字化することができました。当時は20億円ぐらいの売り上げがあり、利益が10億ぐらい出ていましたが、事業が大きくなってくると、このタイミングで次のフェーズに移らなくてはいけなくなります。
ただそのタイミングで会社からの人事の決定があり、考えた末、子会社だったこともあり、次の社長を育てて自分は1回この会社を外れようと思ったのです。
さらに、DeNAも会社のシステムがどんどん出来上がってきて、1000人、1500人の会社になっていました。そこでDeNAを辞めて、もう少し小さい規模の会社に入ろうと考え始めました。
ところが、ちょうどそのタイミングでDeNAがベイスターズを買収することに決まったのです。そこで自分で手を挙げてベイスターズの社長に就任したというのが、これまでの経緯です。

辞める道を選べる幸せ

なぜ、このように結果を出してから次に移ることを繰り返しているかというと、「自分にしかできない仕事に自分の時間を使う」ことが僕のモットーだからです。
僕がとても尊敬する、ビートたけしさんや、NIKEの広告などを手掛けているフォトグラファーの先輩と飲んでいるときに言われたのが、「人にできることは人に任せたらいいじゃないか」「自分にしかできない仕事に、自分の時間を使わないともったいないよ」ということです。
まさに目からウロコでした。やっぱり人に言葉で言われないと、こんな簡単なことなのに分からないことはたくさんあります。
それから、僕はずっと自分にしかできないことにしか時間を使わないというスタンスでやっています。他の人ができるようになったものは全部、思い切って渡します。
そうすると、自分の実力も、自分のやれる仕事も、自分の見えるものも、全部変わっていきます。だからこそ、こうしたキャリアになっていますし、無職にもなっているわけです。
僕は今、実はとても楽しいんです。いろんなかたがたに会って、いろんなお仕事のオファーをいただいたり、いろんな仕事の可能性みたいなものを聞いたりして、今一番自分にしかできない仕事って何なのかなと考えています。
41歳にして、初めてこんな幸せな時間に恵まれているなと思います。自分で何かを始めたり、辞めたり選択できる自由があるのは、すごく幸福なことです。
ベイスターズには三浦大輔というすごいピッチャーがいました。僕の1つ年上ですが、ずっと引退について話してきました。
彼は2016年に辞めましたが、「自分で辞める道を選べる選手だっていうのは、こんなに最高の幸せはない」と言っていました。
もちろん、去ることは大変なので、あまりやすやすと組織を離れたりはしないほうがいいでしょう。
自分にとってのタイミングも必ず来ると思いますので、そのときに個人として生きられるマインドと技量、そして心の強さを持っていないと、組織、社会との断絶みたいなものを感じて病になることもあります。
みなさんもそんなタイミングがきたら、「あのとき池田純という人間がこんなことを言っていたな」と、ちょっとでも思い出してくれたらうれしいと思います。
以上です。今日はありがとうございました。
※続きは明日掲載します。
(構成:上田裕)
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