【新】帰還した大西飛行士が語る「宇宙滞在の理想と現実」

2017/1/9

「イノベーターズ・トーク」第60回には、JAXA宇宙飛行士の大西卓哉氏が登場する。
大西氏は2013年、国際宇宙ステーション(ISS)長期滞在ミッションの一員に選ばれ、2016年7月7日から10月30日までの約4カ月間、宇宙空間に滞在した。
ISSでは日本の宇宙実験棟「きぼう」を舞台に、新たな実験装置の組み立てや初期機能確認作業を担当し、宇宙開発の進展に貢献した。
大西氏のキャリアは、一風変わっている。
大学時代は航空宇宙工学を学ぶ傍ら、「鳥人間コンテスト」のサークルに没頭。卒業後はANAのパイロットとして勤務した。順調にパイロットとしてのキャリアを歩んでいた2008年、新聞で「JAXAが10年ぶりに宇宙飛行士を募集」という記事を目にし、子供の頃からの夢を現実にすべく、試験に応募したという。
日本でもっとも情報発信に熱心な宇宙飛行士の一人としても知られ、滞在中の仕事の様子や帰還後のリハビリの様子をブログ(Google+)に投稿。多くの読者にとって、宇宙の生活が身近なものとなった。
今回、リハビリを終えてアメリカから帰国したばかりの大西氏に、宇宙飛行士になるために突破した試験や訓練の様子、宇宙空間滞在中の危機管理術、また宇宙ビジネスの行方に至るまで、縦横無尽に聞いた。

むしろ腕力はパワーアップした

──大西さんが地球に帰還して約2カ月が経過しましたが、地球の生活には慣れましたか。身体への影響は残っていないのでしょうか。
大西 45日間のリバビリを終え、今では体力も身体の感覚も、打ち上げ前と全く変わらない状態に戻りました。
しかし帰還してから2〜3日間は、平衡感覚のなさに戸惑いました。重力の感じをすっかり忘れていたために、身体の重心がどこにあるかわからなかったのです。身体をちょっとでも傾けると、そのまま地面に倒れそうになりました。そのため、一人では歩けない状態が数時間続きました。
個人的に驚いたのは、話すことすらうまくできなかったことです。カザフスタンの草原に帰還し、その場で日本のメディアの取材を受けたのですが、とにかくろれつが回らない。体が舌の重さを忘れていて、重力がある状態だと舌が回らなかったのです。バランス感覚の退化が、もっとも大きなギャップでした。
大西卓哉(おおにし・たくや)
JAXA宇宙飛行士
1975年東京都生まれ。1998年、東京大学工学部航空宇宙工学科卒業後、全日本空輸(ANA)に入社。2009年、宇宙航空研究開発機構(JAXA)より国際宇宙ステーション(ISS)に搭乗する日本人宇宙飛行士の候補者として選抜される。2011年、ISS搭乗宇宙飛行士に認定。2013年、ISS第48次/第49次長期滞在クルーのフライトエンジニアに任命され、2016年7月~10月、ISSに滞在。
一方、筋力にはさほど影響がありませんでした。現在は国際宇宙ステーションで使用するトレーニングの機器が進歩していますから、帰還してからの体力テストで懸垂の回数が飛行前よりも増えるなど、部位によってはむしろパワーアップしたぐらいです。
国際宇宙ステーションでは重りを使ったトレーニング機器は意味をなしませんから、代わりに真空を利用して負荷を作り出す装置を使って筋力を鍛えています。竹筒の水鉄砲は、水が出る穴を塞いだ状態で棒を引こうとすると力が要りますが、あれと似た仕組みです。
私は週6日間、1日2時間半の運動を日課として行っていました。1時間を有酸素運動、残りの1時間半を筋トレに充てていたため、筋力的には以前と遜色ない状態で帰ってこれたのだと思います。
もちろん、衰えた部分もあります。例えば足の重さを忘れているため、走る際に膝の周りの衝撃を吸収する部分が弱っている感じがしました。帰還直後は、自分の中で普通に走っているつもりでも、思うように太ももが上がらず、足がもつれることもありました。最近になってようやく慣れてきました。
──プロでもこれほど感覚を戻すのが大変ということは、将来的に宇宙旅行が実現したとしても、民間人が感覚を戻すのはかなりの時間がかかりそうですね。
いや、私でもできたから大丈夫です(笑)。私は運動に関しては素人で、地上にいた頃は筋トレも大嫌いでしたから、宇宙滞在中が人生で一番運動した半年間でした。
宇宙に行ったのは初めての経験ですから、地上に降り立った時は違和感しかありませんでした。気分も悪かった。しかし好きな仕事をやらせてもらったのですから、そのツケは払わなければなりません。
滞在中の筋トレもそうで、好きなことをやるためには、嫌いなこともやらないといけない。その一心で頑張りました。

とにかく熱い「鳥人間」の世界

──次に、キャリアについて伺います。大西さんは大学で宇宙工学を学び、ANAにパイロットとして就職しますが、最初に宇宙飛行士を志したのはいつですか。
小学生の頃から、科学自体に興味があって、父親が買い与えてくれた図鑑を食い入るように読むような子供でした。その中で宇宙に関する図鑑を見て、その魅力にとりつかれ、宇宙を研究する学者になろうと思ったんです。
そこで東大の理系に進学したのですが、大学1年のときに映画『アポロ13』に出会いました。そこで初めて、多くの人の思いを背負って宇宙に行く宇宙飛行士の仕事に魅力を感じたのが、職業として意識した最初のタイミングです。
もちろん本気でなれるとは思っていませんでしたが、帰宅してすぐに、母親に「宇宙飛行士になる」と宣言したことを覚えています。
ちょうどその頃、私は挫折感を味わっていました。宇宙の勉強をしたくて東大に入ったものの、周りは頭のいいやつばかり。航空宇宙工学科は1〜2年生のテストで良い点を取らないと進学できない学科だったので、自分が本当に行けるか不安でした。しかし『アポロ13』を見て、「やっぱりこの道を進みたい」と一念発起し、勉強に身が入るようになったのです。
大学2年の後半からは、鳥人間コンテストに出場するサークルに入りました。以後、大学4年の途中まで、自由な時間もアルバイトで貯めたお金もほぼ全てを注ぎ込みました。鳥人間コンテストの世界は熱く、試験飛行で欠陥が判明すると、夜通しで解決策を話し合い、キャンパスに寝泊まりしながら修理して次の試験飛行に備える、といったことを繰り返していました。本当に貴重なサークル活動でした。
そこで味わったのは、ものづくりの達成感と、パイロットの責任感です。多くの人が時間とお金と情熱をかけた機体を操作し、成果に結びつけられるのはパイロットだけなんです。私自身は鳥人間コンテストのパイロットではありませんでしたが、その経験から魅力的な仕事として意識するようになりました。
当初は大学院に進学するつもりでいましたが、ダメ元でANAのパイロット採用試験を受けたら採用してもらえた。そこで、パイロットの道を志したのです。

パイロットが問われるメンタル面の強さ

──パイロットの訓練は宇宙飛行士に勝るとも劣らない過酷なものだと聞きます。実際のところはどうでしたか。
もっともシビアなのはプレッシャーのかかり方です。ANAの場合は、同じ試験に2回落ちると、その時点で落第となり、パイロットへの道が断たれてしまいます。操縦桿を握って初めて、向き・不向きがわかることもあるので、採用された全員がパイロットになれるわけではありません。そうしたプレッシャーは常に感じていました。
──具体的には、どういう人が向いていて、どういう人が向いていないのですか。
一番は精神的な強さです。パイロットに向いているのは、緊張する場面の中でも、自分のパフォーマンスを発揮できる人です。もちろん人間なので、誰しも緊張すれば多少はパフォーマンスが落ちますが、その波が激しくない人が向いていると思います。
フライト中は一歩間違えると、自分も乗客も危険な状況にさらされることになりますから、技能面のみならず、メンタル面の強さも問われます。訓練では状況が事細かに変化する中で、冷静にプランを組み立て直せるかどうかがチェックされます。
前職での経験は宇宙飛行士になる上でも、また実際になってからも、とても活きました。NASAの宇宙飛行士の半分は軍隊のパイロット出身で、宇宙飛行士の前段階としてパイロットのキャリアを選ぶ人も多いのですが、私は宇宙飛行士を目指してパイロットになったわけではありません。
にもかかわらずパイロットとしての経験が、自分の夢であった宇宙飛行士になるために一番役に立ったという点で、自分はとてもラッキーだったと思います。

そして、宇宙飛行士選抜試験へ

──その後、大西さんはパイロットの訓練を経て試験に合格し、ボーイング767型機の副操縦士として国際線・国内線問わず、数々のフライトに従事します。そんな中、宇宙飛行士試験に応募したのはどのような経緯でしたか。
32歳のとき、フライトで赴いた関西空港のホテルで、たまたま新聞を手に取りました。その片隅に、「JAXAが10年ぶりに宇宙飛行士を募集する」という記事を見つけたのです。
ちょうどその頃は、パイロットになって6〜7年が経っており、精神的にも肉体的にも一番充実していました。そのタイミングで、10年ぶりに宇宙飛行士の募集がある。これは何かの巡り合わせだと思い、応募を決めました。
会社には反対されるかと思いましたが、蓋を開けてみるととても熱心に応援してくれました。唯一、母親から「やめてほしい」と言われました。やはり危険な職業という認識でいたのかもしれません。
実際の試験は、書類選考と英語の試験から始まり、1次が学科試験、2次は面接やディベートや医学検査、そして最終試験は閉鎖環境試験とNASAでの面接というものでした。
最終的な結果が出るまでには、応募から1年近くかかりました。その間、私はパイロットの仕事をしながら、宿泊先で英語や学科試験の勉強をしていたのです。運良く2次試験までパスし、最終試験の閉鎖環境試験に臨むことになりました。
*続きは明日掲載します。
(聞き手・構成:野村高文、撮影:竹井俊晴、デザイン:今村 徹)