オタク社長が奏でる、ヤマハ人生。楽器は「人間必需品」だ

2017/3/4

ヤマハ音楽教室出身です

私の音楽との出合いは4歳の頃。ヤマハ音楽教室出身なんですよ。
ヤマハ音楽教室がスタートしたのは1954年。
もちろん教室に通っていた頃は、よもや自分がヤマハに入社するとも、ましてや社長になるなんて思いもしませんでした──。

オタクな慶応ボーイ

高校卒業後は上京して、慶応大学法学部に進学しました。キャンパスライフを満喫とか、そういうのはなかったですね。
当時、流行り始めたシンセサイザーに夢中。多重録音にはまり、ひたすらカセットデッキ2台を駆使して、メロディをどんどん重ねていく。それをくり返すと、それだけでオーケストラの演奏になります。
家でコツコツやって、できたら一人で「フフフ」とほくそ笑むみたいなオタクでした。
もう1つはまっていたのが、プラモデルに手を加えた模型作りです。これまた暗い。
緻密に作り、ほんの少しのバリも許さない──。

“画期的”なコンピュータ

入社研修後に配属されたのは、ヤマハが初めて取り組んだコンピュータ事業の部署でした。
ピアノを弾くと楽譜が出てきます。あと玄関のドアフォンと連動していて、来訪者があるとその画像が記録される。誰が来たかが分かります。
非常に画期的ですよね。世の中にないものを生み出すというのが昔からヤマハの社風なんです。
だた、一式128万円もします。一体誰が買うのか──。

浜松からいきなり米国へ

米国カリフォルニア州にある北米の販売子会社、ヤマハ・コーポレーション・オブ・アメリカの社長に就任しました。
私は入社からずっと静岡県浜松市の本社勤務。そんな私が52歳にして初めて転勤することになりました。
しかも東京でもほかの日本の都市でもなく、いきなりの米国赴任。
浜松しか知らなくて、いきなり米国の社長になった社員はヤマハの歴史始まって以来と言われました──。

時代の寵児、ビル・ゲイツにデモ

入社3年目で、マイクロソフトの創業者であるビル・ゲイツ氏に製品のデモンストレーションをしたことがあります。
なぜ私かというと、キーボードをチョロチョロっと弾けたので、何かと言えば呼ばれてデモンストレーション係だったのです。役得だったかもしれませんね。
ゲイツ氏は有名人には違いないのですが、その頃はまだ彼も若くて30歳前後ぐらいだったと思います。
ヒョロヒョロしたお兄さんという印象で──。

部署を潰す

かつて所属部署を潰したことがあります。
上司である部長に「こんな部は要りません」と話しをしました。
上位の役職者にも進言して、結果的にその部はなくなりました。
それはMSX規格の家庭用パソコンを手掛ける企画管理部という部署でした。
そこで日々仕事をこなしているうちに、「なんかこれ無駄だな」と感じ始めたのです──。

花形とお荷物の事業部統合

同じ会社であっても、異なる事業部同士が統合するのは大変なことです。
電子楽器はヤマハの収益を支えるいわば花形。片や、業務用音響機器は商品開発が遅々として進まず、赤字が続いていました。
お互いがいがみ合っていたら、いい仕事などできません。私は何とか双方の融合に努めました。
どうするか──。

社長就任、縦割り組織を変える 

社長に就任して最初に着手したのが事業部制の廃止です。
これまではピアノはピアノ、管楽器は管楽器と、事業部ごとに開発、製造、営業の機能を持つ縦割りの体制でした。
これを改め、製造本部、開発本部など機能別の体制にしたのです。
なぜこうした大幅な体制変更を決断したのか──。

ジワジワではなく、バシッと

組織を変えるなんていうのは、ある意味いろいろなところで生木を剥がすような作業が発生します。
そういうときは、ジワジワ剥がすのではなく、バシっといっぺんにやれば、みんな自然と切り替わる。
痛みを伴う時間は、短ければ短いほうがいいんです──。

楽器は「人間必需品」

楽器というものは、売り上げがそんなに伸びる商品ではないのでは、と思う人もいるかもしれませんね。
確かに楽器は生活必需品ではありません。
でも、格好いい言い方すると、楽器は「人間必需品」です──。

志を持つ

仕事をやりきれるかどうかは、「好きか、嫌いか」ではなくて、「自分のありたい、こうなりたいという姿に近づけるかどうか」ということだと思います。
もっと言うと、志を持つことです──。
エルトン・ジョンが演奏した日、社長就任の打診
(予告編構成:上田真緒、本編聞き手・構成:荻島央江、撮影:遠藤素子、バナーデザイン:今村 徹)