スポティファイと宇多田ヒカル、音楽が「再起動」した日

2016/10/3

世界の音楽家とファンがつながる

音楽の「今」を象徴する1日だった。
2016年9月29日、東京・恵比寿のあるイベントスペースには、多くの報道陣や音楽業界関係者が押しかけ、異様な熱気を放っていた。
世界最大の定額制音楽配信サービス「Spotify(スポティファイ)」が、ようやく日本でのサービスを開始し、初めての記者会見を開いたためだ。
「日本で事業を始めた2009年の暮れから、この日を心待ちにしていました」
会見後、ポーズを取るダニエル・エク。
会見の冒頭、来日した創業者のダニエル・エクCEOはこう感慨深げに語った。
北欧スウェーデンが生んだ巨大スタートアップである「スポティファイ」が生まれたのは2009年のこと。それ以来、欧州から米国へと進出し、今や全世界で会員数1億人、そのうち4000万人の有料会員を誇る「世界一」のサービスへと急成長している。
「200万人以上の世界中のアーティストを日本に紹介でき、さらに、私たちが好きな日本のアーティストたちを世界に紹介できるのはとても嬉しい」
エクがこう述べるように、スポティファイの強みを1つ挙げるならば、世界中のアーティストと音楽ファンを「つなげていく」仕組みにある。
今この瞬間も、有名無名の個人や、スポティファイ公式のキュレーターたちが、新たな音楽を紹介する「プレイリスト」を作成し、それがSNSなどを通じて拡散され、国境を超えた新たな形でのヒットを生み出していく。
さらに重要なのが、そもそもが「違法ダウンロード」への対抗として生まれたサービスなため、(異論はあるが)アーティストへの配慮は欠かさず、これまで累計で50億ドル(約5000億円)を支払ってきたことを明らかにしている。
結果的に、2015年に定額制配信に参入した「アップルミュージック」の勢いも相まって、2016年、米国の音楽市場は1998年以来初めて、2年連続の成長を記録するまでになった(参考記事)。
欧米では、まさに音楽産業の復活を牽引した“救世主”だったのだ。

日本の音楽は生き返るのか

そして、日本への拠点設置から4年間、足止め状態だったスポティファイが、今、上陸を果たしたのも、日本の音楽業界の現状ともちろん無関係ではない(具体的な真相は、NewsPicks編集部がスポティファイ上陸をいち早く報じた特集をご覧いただきたい)。
日本の音楽産業は、ピークだった1998年の6075億円から、2014年には半分以下の3000億円を切るまでに落ち込んだ。
2015年には定額制配信の「アップルミュージック」「LINEミュージック」などの開始で、ようやく底を打ったが、まだ回復の勢いが強いとは言えない。そんな中で、ようやく参入できたのがスポティファイだったのだ。
「日本のアーティストと1億人のユーザーを結びつけ、日本の音楽業界の健全な発展に寄与することを約束します」
会見の場で、スポティファイの野本晶氏はこう繰り返し強調した。
「遅すぎた」と評される上陸だが、それでも、日本のアーティストが世界と結びつく新たな強い手段を手に入れたことだけは間違いない。
それはひいては、長年落ち込みを見せていた日本の音楽業界が「復活」への一歩を踏み出すことにつながるかもしれない。

音楽業界が震撼した“異変”

同じ日、ツイッター上では、米国で起きたある“異変”に音楽ファンらが急速に盛り上がっていた。
前日28日に発売された宇多田ヒカルのアルバム「Fantome」が、米iTunesのランキングをみるみるうちに駆け上がり、日本時間午前には全米6位、夜にはなんと3位にまでのぼり詰めたのだ。
この前代未聞の快進撃には、宇多田自身もツイッターで驚きを隠さなかった。
というのも、確かに宇多田は2004年には米国進出を果たしているが、今回のアルバムに関しては「プロモーションは国内だけで、海外はほぼしていない」(ユニバーサルミュージック担当者)という状態だったためだ。
宇多田ヒカルのニューアルバム「Fantome」。

国内向けの作品が世界で評価

宇多田ヒカルといえば、それこそ日本の音楽産業がピークを迎えた1998年にデビューした日本が誇る最高峰のアーティストだ。
ファーストアルバムの「First Love」は累計売上枚数が国内歴代1位の765万枚を誇るほか、数々の賞を総なめにし、人々の記憶にいくつもの楽曲を刻んできた。
だが、Utada名義で大きなプロモーションを敢行した2004年の米国進出の時点でも、今回の「Fantome」のような結果は残せてはいなかった。
それが、なぜ今、国内向けのアルバムが米国のリスナーに響いたのか。
「詳しい分析はできていないが、主題歌を担当したNHKドラマ『とと姉ちゃん』が世界に提供されていること、楽曲を提供したゲームや映画が世界でヒットしたこと、さらにはこのブランクの間に、インターネットを通じて、海外の人に多くの作品を聴いてもらえるようになったためではないか」と、ユニバーサル関係者は指摘する。
つまり、音楽産業による大きなプロモーションなどは関係なく、宇多田が再始動するまでの間に、国境を超えて世界の音楽ファンが彼女の作品を楽しめる土壌が、インターネットを通じて醸成されていたということだろう。
しかも、米国向けに作り込んだ作品ではなく、宇多田自身が、母親の死を思い、初めてほぼ日本語で書き上げた楽曲たちが、世界で受け入れられたというのも、意義深い。
それこそが、世界のアーティストと、リスナーが「つながっていく」という新たな形なのではないだろうか。
ちなみに、同じタイミングではあったが、宇多田の作品は現状ではスポティファイには提供されておらず、配信関係者に聴いても、「現時点ではまだ提供される予定はない」という。
だが、この新時代とも言える音楽の世界で、アーティストとリスナーが結びつく新たな動きが活発化していけば、また宇多田ヒカルに次ぐような、日本を彩るアーティストが生まれ、音楽も蘇っていくのではないだろうか。
そんな予感を感じさせた9月29日だった。

音楽と音楽家の新しい形

この特集では、音楽と音楽家が迎える「新時代」をテーマに、最前線の動きをレポートしていく。
まず、第1回、第2回では、米フォーブス誌が「音楽業界で最も重要な男」と評したスポティファイのダニエル・エク氏の単独インタビューをお届けする。
人口1000万人を切る北欧スウェーデン発のこの企業がいかに「世界一」へとのぼり詰めたのか、その秘密に迫るとともに、スポティファイがもたらすアーティストの新たな形や、米アップルとの競合関係、噂されるフェイスブックによる買収までを直撃した。
【直撃】スポティファイCEO「世界一」のすべてを語ろう(前編)
【CEO独白】アップルの参入で、スポティファイは加速した(後編)
第3回は、復帰した宇多田ヒカルの傑作「Fantome」が日本や世界の音楽産業にもたらした大きな意味について、『1998年の宇多田ヒカル』の著者である宇野維正氏への取材に基づきレポートする。
同時に、復活した米国の音楽シーンが空前の活況を呈していることや、日本の音楽産業の出遅れについても、詳述していく。
【3分解説】宇多田ヒカルが突きつけた4つの「メッセージ」
このほか、スポティファイなど新たなイノベーションが起きた時に、主役を担ったアーティストたちにフォーカスする。
音楽の歴史では、CDやiTunes、YouTubeなど、様々なイノベーションが起きてきたが、その普及にはアーティスト自身の賛同がないとまず成功することはない。そのアーティストたちの歴史を紐解く。
【入魂1万字】ソニー、アップル……起業家に「賭けた」音楽家の物語
また、スポティファイが起こした音楽の聴き方の「革命」についても取り上げる。音楽アルバムだけでなく、プレイリストを通じた音楽のシェアは、新たな形のアーティストのヒットを生み出し、エコシステムを大きく変えていく。
また、MIT(マサチューセッツ工科大学)の音楽データ分析会社を買収したテクノロジーの側面にも注目する。
【実録】無名会社員を「スター歌手」に押し上げた新発明
それ以外にも、日本から世界を目指しているアーティストたちにフォーカスする。
米ビルボードのチャートにランクインするなど快進撃を続けるBABYMETALや、精力的に海外展開を続けるPerfume、ロックバンドとして最初から海外を見据えたONE OK ROCKなど、新世代のアーティストを取り上げる。また、多くの海外進出アーティストの所属がアミューズであることにも注目する。
アミューズ「1強」。アーティストは海外の壁を超えられるか
このほか、番外編として、新たな時代を担う若手アーティストへのインタビューも掲載していく予定だ。
新世代音楽家「良い音楽が売れない」なんて幻想だ
(敬称略)