【新証言】「孫の女房」が目撃した、ニケシュ後を決めた夜

2016/9/12
その日、孫正義は素直にアドバイスに耳を傾ける“生徒”だったという。
2016年8月、中国。ソフトバンクグループ副社長の宮内謙は、アジアを代表するIT企業を育てた創業者2人のやりとりを「目撃」していた。
同日夜、孫正義は中国最大のeコマースを展開するアリババグループ(阿里巴巴集団)の会長、雲馬(ジャック・マー)と食卓を囲んでいたのだ。
料理を載せた皿と供に卓上に載せられたのは、ソフトバンクがインターネット財閥として君臨していくために、「どのように後継候補を見つけてゆけば良いのか」という悩みだった。

反省する孫、「生徒」になる

孫は、反省をしていた様子だった。
2014年秋、熱烈なアプローチの末に、グーグルのビジネス部門トップだったニケシュ・アローラを迎え入れた。165億5000万円という破格の年俸(2015年3月期)を支払い、初の後継指名に世間は驚いた。
グローバル化の加速を託されたアローラだったが、社内の経営幹部とのあつれきは深まるばかり。最後には、アローラの出資する投資案件について、不適切な行為があったことを指摘する怪文書まで飛び出した。
そして2016年6月、米ARMの買収発表という大型案件を目前に、アローラはソフトバンクを去ることになった。
孫の一目惚れは、結果として、失敗に終わった。
「私は4回も、間違っているぞ、と指摘した。その企業の遺伝子がわかっていなければ、優秀な経営者を連れてきても、上手くはいかない」
馬はそう振り返ると、今や時価総額にして約25兆円をほこるアリババが採用している、独自のパートナー制の仕組みを孫にレクチャーしてくれたのだった。
ジャック・マーをはじめ、孫は世界中に張り巡らせてきた起業家のネットワークを持っている。
アリババでは馬を頂点にして、さまざまなビジネスを束ねる約30人の最高幹部のパートナーらが、グループ全体の「連邦会議」を構成している。
最低5年間におよぶアリババへの貢献を条件に、投票によって新メンバーが加わったり、解任されたりする。パートナーは実年齢と勤続年数を足し合わせた数が60を超えると、定年となる。
創業者の遺伝子を伝えるための、中国流の秘訣を教えてくれたわけだ。実業家としては孫が兄貴分だが、この日は、馬が教える側に回った。
「僕は、かつて英語教師をやっていましたから」
馬がそう言うと、孫は今夜は自分がステューデント(生徒)だと返して、笑いを誘った。
ソフトバンクが買収や出資を通じて束ねる874社(子会社739社、関連会社135社)のグループ会社には、ユニークな経営者たちが多数在籍している。米ARMの頭脳集団はそこに加わったばかりだ。
キラリと光る人材をここから選び出し、アリババに習った後継体制をつくる。それがこの夜、話し合われたアイディアだった。
「いい考えだ。履歴書を見て、こいつはすごいなって思っても、結局は3、4年は一緒に働いてみないとわからない」と、耳を傾けていた宮内もうなずいた。
一方で、それは当面は孫正義にとって替われる人物はいないという事実を、再確認したことに他ならない。

欲しいのは「未来地図」だった

1981年にソフトバンクを設立した孫は、デジタル革命に自分のフィールドを定めながらも、ある特定のビジネスに固執しなかった。
実際に主要事業は、ソフトウェアの卸売業(1980年代〜)や出版事業(同)から、インターネット産業(90年代〜)、ブロードバンド事業(2001年〜)、携帯電話事業(2006年〜)とシフトを続けている。
こだわったのは、刻一刻と変化する、IT業界の「未来地図」を手に入れて、つねに先を読んでいくことだった。
まだ開発途中だったiPhoneの販売権を、孫はスティーブ・ジョブズに掛け合った。
孫にとっての「地図」とは、時に買収した企業のもっている情報ネットワークであり、時には、一目惚れをして事業を進めるパートナーにした人物でもあった。
つまり、それは目指すべき方向を照らしてくれる「人」だった。
1995年、株式上場を果たした翌年にソフトバンクはその勢いで、世界的なコンピュータ見本市である「COMDEX」を買収。シリコンバレーを中心としたハイテク産業の風を、思い切り吸い込むための道具を手に入れた。
「あの時の経験は、とても大きかった。主催者として、マイクロソフトのビル・ゲイツをはじめとした経営者たちと、ずいぶんと人脈をつくった」(宮内)
こうした情報ネットワークは、未来の有望株となるベンチャー企業を見つけるためのアンテナになった。
まだヤフーを創業したばかりのジェリー・ヤンに出会い、出資をしながら、日本法人を立ち上げた。わずか5分間の面談で、電撃出資を決めたジャック・マー率いるアリババも、その中で発掘した“お宝”の一つだった。
その時期、ソフトバンクの旺盛な海外投資や買収を支えた「知恵袋」は、野村證券出身の北尾吉孝(現SBIホールディングス社長)だった。また金庫番として、2000年代のソフトバンクの急成長を支えたのは、富士銀行(現みずほ銀行)出身の故・笠井和彦氏だ。
そして、彼らが去った後も、孫は常に新たな「地図」を探していた。
孫がニケシュに一目惚れしたのも、グーグルの最高幹部の1人として、シリコンバレーの動向を知っていたこと。そして母国インドに、強いネットワークを持っていたことも大きな魅力だったに違いない。
しかし、ニケシュの退任後、古くから孫正義を知っている関係者はこう口を揃える。
「ソフトバンクは、やっぱり、孫さんがすべて決めなくてはいけない企業のままだったな」

「オラ辞める。任せた」

そんな孫が過去、どうしてもソフトバンクの経営者を辞める、と強硬に主張したことがある。それが2011年3月に発生した東日本大震災の、直後のことだった。
「自然エネルギーに注力したいという理由で、役員会議で、オラ辞めるって言い始めた。それで宮内さん、やってくれと...…」と、宮内は語る。
当時の、孫の尋常ならざる様子は、その他にも多くの経営幹部の記憶に残っている。
震災直後に原発事故の影響を受けた福島県の被災地に入り、現場を見てきた孫は、もう一度人生があったらエネルギー業界で戦いたいと話すようになる。
また再生可能エネルギーの普及のため、自然エネルギー財団を設立。エネルギーの知識を吸収するため、連日連夜、産業界からアカデミーまで多くの人々を集めて、猛烈に勉強を始めていた。
「涙を流して、机をバンバン叩いていました。最後には、どうせ俺は辞めるんだから、解任しろ!という騒ぎにまで発展しました」(同社役員)
孫がいなければ、いまや2万人を超える大企業になったソフトバンクは、そのパワーを失ってしまうかもしれない。
その時はあらゆる役員や取締役のメンバーが、総力になっても、止まらない勢いだったという。
あれから5年。経営者の椅子にとどまった孫正義のアタマの中は、買収したばかりのARMでほとんどを占められているという。まるでその他のことは、忘れてしまったかのようだ。
 エンジニアのARMと、ビジネスモデルに優れたソフトバンク。この2つが、新しく一緒になる──。
いつも未来のビジョンを掲げる孫と、それを現実のビジネスに落とし込み、着実な成果にしてきた宮内をはじめとする側近たちのコンビネーション。
この関係は、もう長らく変わっていない。
「孫さんはオーナーだから、死ぬまでソフトバンクにいなければいけない。CEOをずっとやれということでは、ないのですが」
それは30年以上、孫と経営を共にしてきた宮内にとっても、孫の後継者が見当たらないことは否定できない事実だった。
だが今や一番の古参幹部である宮内は、1984年から孫と続けてきた長旅を、やれるだけ続けようと決めているようだ。
「今日の午後、(アップルの発表会に出るために)米国に向かうよ」
そう言い残すと、宮内はインタビュールームから姿を消した。
(撮影:遠藤素子)