【軍地彩弓×横山由依】ブームを生み出すために必要なこと

2016/9/11
AKB48グループの2代目総監督を務める横山由依さんがNewsPicksのプロピッカーと対談する新連載「教えて!プロピッカー」。政治・経済からカルチャーまで、第一線で活躍しているキーパーソンと対談し、基礎から学んでいく企画だ。
今回は、ファッション・クリエイティブ・ディレクター、雑誌編集者として活躍する軍地彩弓さん。ファッションの流行をどう生み出してきたのか、また女性をどのようにマネージメントするのか、などについて横山さんにレクチャー。 
 前編では、数々のブームを手掛けてきた軍地さんの取り組みについて話が展開した。

“芽”を取り上げることが重要

――軍地さんはファッション誌の編集者として、「ギャル」「109」「アラサー」など、数々のブームを手掛けてきました。 
横山 すごい、そうなんですね、みんな知っています。ギャルでいうと、漫画の『GALS!』を読んだり、ドラマの『ギャルサー』を見ていたりしました。
軍地 ドラマでもみんなパラパラをやっていましたよね。ギャルブームは、2000年ぐらい。由依さんが小学生の時ですね。
当時、私は雑誌『ViVi』の編集者としてファッションのページを作っていました。その頃、業界では「お嬢さん系」が流行っていたのですが、「このまま他の雑誌と同じことをしていても、うまくいかないな」と感じていました。
そんなときに、安室(奈美恵)さんや浜崎(あゆみ)さんなどが人気を集め、彼女たちに憧れる女の子がミニスカートを穿いて、派手なメイクをして、109で人気が出始めたサーフ系ブランドの服を着始めていました。
ギャルブームが始まる前の109は、安い洋服がガチャガチャ置いてある感じで、ファッションビルにはほど遠い感じだったんですよ。
横山 安室さん、浜崎さんのお二人の人気から、ギャルや109ブームが生まれていったんですか?
横山由依(よこやま・ゆい)
1992年12月生まれ。京都府木津川市出身。2009年9月、AKB48第9期研究生として加入。2010年10月に正規メンバーとなり、2015年12月、AKB48グループ2代目総監督に
軍地 確かに、この2人のカリスマが引っ張っていった側面はあります。でも、それより重要なのは、街中でブームを担う“芽”を持った子たちを見つけ、取り上げることなんです。
私たちは、そんな子をひたすら取材していました。ファッションのブームって、最初はバラバラに存在していたオシャレな彼女たちが、だんだん固まって、それが大きくなることで生まれるんです。
例えるならば、それは雪ダルマに似ています。どんなに大きな雪ダルマも、最初は小さな玉を作るところから始まりますよね。もっと言えば、この最初の玉がないと、カリスマや誰かが単にブームを仕掛けようと思っても作れないんです。
横山 何もないところからは、生まれないんですね。
軍地 だから『ViVi』では、とにかく最初の雪玉を作るために、リアルな女の子たちが何を着たいのか、徹底して取材していました。そのなかで、「おしゃれな子で頭にハイビスカスをつけている子が出始めている」と発見したら、その子たちの声をいち早くまとめる。
そして、「今、渋谷でハイビスカスがブームになっている」と記事にする。「おしゃれな子はハイビスカスに注目している。だから、次に渋谷に行く時はこれを買わなきゃ!」と盛り上げていくんです。
当時の『ViVi』は50万部ぐらい売れていたから、地方の子も真似したがりました。みんな、そのハイビスカスを買いに109に来たり、買えない子は地元のショップに行ったりして、ブームになっていきました。
当時、軍地さんが手掛けていた『ViVi』。(写真提供:軍地彩弓)
横山 なるほど。みんな同じものを身につけたがっていたんですね。今だと、見た目も全部真似して「この人になりたいな」っていうのはなくなっている気がします。同じものよりは、オンリーワンが良いと思っている感じがします。
軍地 そうですね。この頃は、まだ大量消費の時代だったんです。
その意味で一番面白かったのは、安室さんの結婚記者会見でのファッションを特集したこと。会見で安室さんは、カルティエのラブリングをつけて、バーバリーのミニスカート、黒いタートルネック、オーバーニーのブーツで登場したんです。
そこで、私が雑誌の一面で「安室ちゃんの結婚会見に着ていた服はこれだ!」と、記者会見の写真からアイテムごとに線を引っ張って、「これは、カルティエです。これは、バーバリーです」と記事で説明したら、発売日から、みんながカルティエを買いに走り、ラブリングは完売状態になりました。
軍地彩弓(ぐんじ・さゆみ)
「ViVi」でファッションライターとして活躍、ギャル、109ブームなど数々のブームを仕掛ける。「GLAMOROUS」の創刊メンバーとして参加し、ファッションディレクターに就任。アラサーブームを生み出す。コンデナスト・ジャパンに入社後、「GQ JAPAN」編集長代理、「VOGUE girl」クリエイティブ・ディレクターをつとめ、2014年より「Numero TOKYO」エディトリアル・ディレクターを務めると同時に自身の会社「gumi-gumi」を立ち上げる。活動は、ファッションコンサルティング、講演など多岐に渡る。ドラマ「ファーストクラス」(フジテレビ系列)などの衣装監修も務めた。
横山 ええっ?  高いのに。すごいですね。
軍地 まあ、当時は援助交際とかもあったと思うんだけど(笑)。
横山 あっ……。じゃあ、その頃と比べると、時代が変わってきたなと思いますか。
軍地 すごく変わっています。個人対個人になって、マスメディアの力よりも、個人の力の方が強くなっています。AKB48も、1つのグループだけれども、各メンバーがファンと直接会えますよね。
そうした関係性をつくる流れは、今まさに雑誌が、マスから個に変わっている時代と一緒です。
ファッションだと、例えば、梨花さんやローラさんを好きな人は、インスタを通してメッセージを送って、つながろうとする時代。
モデル側も、今までだったら、雑誌に出なければ、自分のやりたいファッションやメッセージを伝えられなかったけれど、インスタやブログで伝えるように頑張る。すると、ユーザーも、ファッション誌を見る必要がなくなっちゃうわけです。
だから、雑誌はこれまでとは違う価値をつくらなきゃいけない時代になったと思います。

前例を打ち破って生んだブーム

横山 そのなかで、「アラサー」ブームも手掛けたんですか。
軍地 『ViVi』を15年担当した後で、会社から「1冊、好きな雑誌を作っていいよ」って言われた時に、『ViVi』を卒業した30歳前後向けに新しい価値観をつくりたいと考えたんです。
1つの雑誌を卒業すると、次はその上の年代に合わせた雑誌に移ります。たとえば『CanCam』の読者は、卒業すると『Oggi』を読むようになり、『JJ』なら『CLASSY』。ただ、そのとき、年代が上になるとファッションがコンサバティブになっていたことに疑問がありました。
それは、ファッションが会社のため、結婚のため、良い奥さんになるため、などを前提とした服になっていたからです。
でも、『ViVi』の読者を見ていたら、この子たちが、良い奥さんを目指すとは思えなくて(笑)。
横山 自分が着たい服を着て、ファッションを楽しむ感じですよね。
軍地 そう。それに彼女たちの中には自立心というか、自分で稼いで、結婚しなくても生きていくって価値観も出てきていたのに、ファッション誌はそれについていけてなかった。
109系のファッションが好きな子が、30歳前後で何を着るのか。そこに、アラサーとキーワードをつけて、作ったのが、『GLAMOROUS』。これは、私がネーミングしました。
同時期に、『CanCam』が同誌の卒業生に向けた『AneCan』を創刊しましたが、私たちは単に“アネ”と、上の世代に向けた洋服を提案するのではなく、生き方そのものを提示したかった。
『GLAMOROUS』は、胸が大きいとか、スタイルが良いといった意味ではありませんでした。自由で豊かな生き方を提案することがコンセプトだったんです。
私は、ファッションは知性だと思います。新しいものを知ろうとしたり、次の時代が提案していたりするものを自分に取り込むことは、ニュースを見るのと変わらない。
いざ『GLAMOROUS』を作ると、創刊準備号が10万部を超えました。正直、1回限りかもしれないと思って作ったのですけれど。
この雑誌からは、「梨花ちゃんブーム」なども生まれました。ご本人と「30代でも、ずっとオシャレでいられることを提示しよう」と直接話し合い、新しいファッションを打ち出しました。
そこで、「30歳を過ぎてもショートパンツ穿いてもいいんだ」「Тシャツにデニムでもカッコいいんだ」といった価値観が世の中に広がり、理解してもらうことが出来ました。
横山 「何でも作っていいよ」と言われても、新しいことをやるにはやっぱり勇気がいるから、やりにくいんじゃないでしょうか。その結果、新規創刊も普通のビジネスウーマン向けのファッション誌になることも多い気がします。
軍地 その通りです。雑誌を一冊作る時って、だいたい広告代理店が出てきて、「今、この世代の女性が、こういう消費傾向を持っている。だからこんな服を取り上げると、このクライアントがつくから、そういう雑誌を作ってください」と、ビジネスやマーケティングありきで作られることが多いんです。
でも、私は本当の女の子たちの言葉から、雑誌を作りたかったんです。「一生オシャレでいるためには、どうしたらいいんだろう?」という問いに答えたかった。
だから、一般的なマーケティングをせずに、自分の感情や嗅覚、勘だけで作ったから、女の子にすごくウケたと思うんです。
『GRAMOROUS』創刊号
横山 怖がらずに挑戦したことで生まれたんですね。
軍地 そう、前例を破りたかったんです。大変だったけれど、それが自分の自信になっています。今では、カリスマ・スタイリストと呼ばれている方たちと、夜中まで「これでいいのか?」って激論を交わしていて、毎日が熱かった。
私が、「これだとオシャレすぎて、読者がついていけない!」って言うと、スタイリストは「え? オシャレで何が悪いの?」と言い返してくる。
こっちが「全身で100万円の服は無理。全部で1万円にしてください!」と主張したら、「そんなこと、できるわけないじゃない!」と言われて、ハイヒールが飛んできたこともあります。私も雑誌をバーンと投げ返しましたけど(笑)。
横山 ええっ、そんな状態だったんですか。
軍地 でも、みんなお互いが嫌いになったわけじゃなくて、今となってはいい思い出です。いまだに「寝られなかったけど、楽しかったね」「また、やりたいね」って話すことがあります。「あの時、本当に軍地さんを殺したかった」っていう人もいますけど(笑)。
横山 すごい(笑)。当時は、お仕事をしているときは「大変だな」という感覚が強かったんですか。
軍地 それよりも、使命感が強かったかも。「ファッションを通じて女性の生き方を伝えなければいけない」と。
当時は、今以上に女性は子どもを産んで、仕事を辞めて、育児に専念しなさい、という空気が強かったんです。だから、『GLAMOROUS』では、子育てしながら、フルワークをする生き方はどういうものかと伝えていました。
そして、その頃は珍しかった年下の男性と結婚をした方や、事実婚をしていた方、海外で結婚生活を送っている方など、女性の多様な生き方を特集しました。
また、日本では女性の生き方が縛られているので、海外のセレブやアーティストの取材もしていましたね。ジェニファー・ロペスやビヨンセ、パリス・ヒルトンを取材したこともあります。世界にもっと広い目を持って、もっとたくさんのものを見て、やりたいことを見つけようよというメッセージを伝えたかった。
女性に対して「見たことがないものを見せたい」って思いが強かったので、毎回アホな企画も考えていました (笑)。イケメン男性100人と女性100人を集めた100対100合コンとか。
横山 100人同士ですか。大変な企画ですね(笑)。
軍地 女の子は、応募が多すぎて抽選。ところが男の子は、当日になって怖気づいて、半分ぐらい来なかったんですよ。だから、仕方なく編集メンバーが路上で男の子をナンパして(笑)。
このとき、男性はいざとなると、逃げるんだなと思いましたね(笑)。これまで、男性が、女性をグラビアなどで商品化していたように、女性が男性を商品化してもいいんじゃないかと、逆のことをしたかった。
社会学専攻でしたから、学生時代からジェンダー論をよく読んでいたことも影響しているかもですね。
ただ、そこで考えていたのは、女性が男性と戦ったり、男性を否定したりするんじゃなくて、お互いが同等の目線になれたらいいなということでした。
雑誌を開いた時、女性に「わあっ!」って喜んでもらえるような記事を作りたいと思っていましたね。
こうした特集は、いまだに「すごく衝撃的でした」「雑誌に影響されました」と言ってもらう機会があって、私の経歴の中でも、すごく大きな部分を占めています。

子どもの頃の記憶が人生に影響する

横山 軍地さんは、もともと雑誌が好きだったんですか?
軍地 そうですね。もっと言うと、小学生の時、新聞係で壁新聞を作っていました。私は、人にものを伝えるのが楽しくて、漫画も描いていて、みんなの反響もすごくうれしかったんです。
振り返ると、「楽しかった、人に喜ばれた」という記憶が、人生に意外と影響するんだなと思います。
横山 私が芸能界を目指したきっかけは、ケミストリーのコンサートが抽選で当たって、家族4人で見に行ったことです。そのとき、コンサート会場がバッと暗くなる瞬間の鳥肌と、お二人の歌声が忘れられなかったんです。「人の声で、こんなにも感動させられるんだ」ってビックリして、「私もそうなりたいな」と思ったことがスタート。確かにそういう記憶って大きいですね。
軍地 ファッションも好きで、中学生の時から雑誌を読んでいて、「この服が欲しい」と思ったら、お小遣いを持って、実家の茨城から東京に買いに行くような子でした。
でも、自分は全然オシャレじゃなかったし、オシャレの仕方もわからなかった。この仕事をしていると、生まれ持ってセンスが良くて、身に着けているものはハンカチから何もかもがオシャレな人もいますけれど。
私はそういうタイプではないので、今でも仕事をしていて、オシャレな子を横から覗いているような感覚があります。
最初は自分がオシャレになりたかったんですけれど、いつしか「自分のような子にオシャレになる方法を伝えたいな」と、やりたいことが変わっていきました。
その中で、「たくさんの人が幸せを見つけられる仕事」として編集者を選んだのかなと思います。
(構成:菅原聖司、写真:是枝右恭)
※後編は、来週掲載いたします。