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ウェルチから得た金言、生え抜きトップの哲学。今語るリーダーまでの道程

2016/08/26
複数の業界・企業を渡り歩き「プロ経営者」としての道を歩んできたLIXIL元社長兼CEOの藤森義明と、生え抜きとして帝人に一貫して身を置き、トップに就いた大八木成男。歩んできた道は違うが、どちらも強いリーダーシップのもと変革を推進してきた共通点がある。9月29日「COMPANY Forum 2016」に登壇し、リーダーシップ論や変革の精神について講演する二人の変革者。両氏が当日語る哲学の裏には、どんなキャリアストーリーがあったのか。その道程をたどる。
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東大アメフト部で「変革」は始まった

米ゼネラル・エレクトリック(GE)でアジア人初の上席副社長を務めたのち、主要子会社5社の統合により新たなスタートを切った住まいの総合企業、LIXILにCEOとして招かれた藤森義明。国内では収益性アップ、海外ではシェア拡大に取り組んだプロ経営者として世に知られている。

変革者としてのイメージを持つ藤森だが、それは自身の殻を1枚ずつ破った結果、身についたものだ。始まりは大学時代にさかのぼる。

「高校までは野球一筋だったから大学でも野球をやるつもりで、野球といえば六大学、ならば東大だろうと(笑)」。一浪して東大に入学、意気揚々と野球部の部室を訪ねたが、その瞬間、「本当にここでいいのか?」と疑問を感じてしまった。

それ以前は六大学野球の華々しさをテレビなどで感じ、大学野球に大きな期待を持っていたが、部室に漂っていたのは古臭さ。ワクワクするような新しいチャレンジがあると思うことができなったのだ。

迷っている藤森に声をかけてきたのがアメリカンフットボール部。「ルールなんて知らなくていいから、今から練習に来いと。すべてがその調子で、アメリカンな自由さがあった。野球しか知らない自分を変えるチャンスだと思った」。こうして藤森は1枚目の殻を破った。

望まなかった海外留学が転機に

「荒っぽくて自由闊達。東大生が少ないから社長になる可能性も高い」と日商岩井(現:双日)に入社した藤森は、イランのLNG(液化天然ガス)開発部隊に配属された。

ところがイランのプロジェクトは、1979年に勃発したイラン革命で水泡に帰し、会社は藤森にMBA留学を命じた。

この留学先で藤森は、2枚目の殻を破ることになる。

カーネギーメロン大学に合格した藤森は、日本企業とはまったく異なる価値観に直面した。「まず、自分を出さないと決して注目してもらえない。そして素早く決断して、重要でないものを捨てる。自分に残すものは少なくていい」

留学中に行った自己改革は、帰国後に参加したカナダのプロジェクトで発揮された。物怖じしない発言、行動力がビジネスパートナーからも高い評価を受けたのだ。「準備、練習していると『試合』でも結果が出せる。自分は変わることができた、というセルフコンフィデンスを自覚しました」

1951年生まれ。1975年、東京大学工学部卒業。同年、日商岩井(現・双日)入社。1981年、 カーネギーメロン大学 MBA取得。1986年、日本ゼネラル・エレクトリック入社。1997年、ゼネラル・エレクトリック・カンパニー カンパニー・オフィサー。2001年、ゼネラル・エレクトリック・カンパニー シニア・バイス・プレジデント。2008年、日本ゼネラル・エレクトリック取締役会長兼社長兼CEO(代表取締役)。2011年、住生活グループ(現・LIXILグループ)取締役代表執行役社長CEO(兼LIXIL 代表取締役社長兼CEO)。2016年1月、LIXIL代表取締役会長兼CEO。同年6月、LIXILグループ相談役(現任)

1951年生まれ。1975年、東京大学工学部卒業。同年、日商岩井(現・双日)入社。1981年、カーネギーメロン大学 MBA取得。1986年、日本ゼネラル・エレクトリック入社。1997年、ゼネラル・エレクトリック・カンパニー カンパニー・オフィサー。2001年、ゼネラル・エレクトリック・カンパニー シニア・バイス・プレジデント。2008年、日本ゼネラル・エレクトリック取締役会長兼社長兼CEO(代表取締役)。2011年、住生活グループ(現・LIXILグループ)取締役代表執行役社長CEO(兼LIXIL 代表取締役社長兼CEO)。2016年1月、LIXIL代表取締役会長兼CEO。同年6月、LIXILグループ相談役(写真:風間仁一郎)

GEで「変革の精神」を知る

最後の殻は、“伝説の経営者”ジャック・ウェルチが率いるGE流の変革の洗礼を受けたことで破られた。

「このまま日本企業で社長を目指すのでなく、自らメジャーリーグに入り、勝ち抜く自信が出てきた」。そんな藤森に、ヘッドハンターを通じてGEの日本法人からのオファーレターが届いた。25年勤めることになるGEとの出会いだ。

「このまま商社で社長を目指すか、それとも世界を代表する企業でアメリカ人と勝負して上を目指すか。GEのほうが面白いゲームだと思った」

「GEでの仕事は、3年サイクル。最初の半年で顧客と業界、強み・弱みを把握し、半年で変革のビジョンを示す。その後の1年で実行、最後の1年で結果を出す。できないとさよなら。できると大きなチャンスをもらえる。極めてシンプル」

ビジネスパーソンにとって、30~45歳に学んだことがその後を左右する、というのが藤森の持論。その年齢のとき、藤森の師はジャック・ウェルチだった。ウェルチからはたくさんのことを学んだと言うが、その中の一つにチームづくりがある。

「ウェルチは私がつくったビジョンとチームプランを伝えると、まず『メンバーをどの程度代えたか?』と聞く。『60〜70%代えた』と言えばOK。『ほとんど代えていない』と言えば不合格。ウェルチは『自分が今考えられる目標の3倍』を求める。そんなストレッチな目標を実現するには、今の延長線上では絶対にダメだから、思い切った組織再編をしろ、と」

また、ウェルチが人やビジネスに可能性を感じる指標としている「変革に対するパッションの大きさ」という答えも、ウェルチから教えられ藤森が大切にしている言葉だ。「ビジョン、目標の立て方、チームビルディング、進捗を見定める術、チャンスを平等に与えること。私のビジネススキルはウェルチとの時間で育まれた」

結果が厳しく求められる組織の中で、藤森は“常勝”を続け、アジア人初の上席副社長にのぼりつめた。

藤森がGEの次に選んだのはLIXILだった。「日本で日本の会社の経営に携わりたい」という思いをGEの後半に抱いた藤森は、いくつかの企業のオファーを受けていた中、当時のLIXILグループ会長の潮田洋一郎から、「変革に対するパッション」を、ほかのどの企業の代表者よりも強く感じ、LIXILを選択した。

こうして藤森義明は世界で戦うリーダーの一人となった。彼の中には、師であるジャック・ウェルチからも学んだ「変革」を求める心が息づいている。

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トップとして「社員と患者の命」を預かる

大企業の中で「変革」を実行する経営者は、時に孤独の中で戦う必要がある。日本の老舗企業であれば、その傾向は一層強いだろう。大きな船の船長としてかじ取りをして、時には厳しい決断もしなければならない。

2008年6月、帝人のCEOに就任した大八木成男(現・帝人取締役会長)。帝人始まって以来の非繊維畑出身社長として話題になった。しかし「逆風の中のスタートだった」と大八木は回想する。

就任時、原油は1バレル148ドルまで高騰した。その直後に、戦後唯一、世界経済がマイナス成長に陥ったリーマンショックが起き、帝人の業績も悪化。

「社長業をやった人にとって環境の激変に触れることは禁句ですが、これほど大きな傷からは10年がかりでないと回復できない。僕の時代は荒波の中だと、経営者として覚悟しました」

非難を浴びながらも不採算事業の整理を推進、その中には合繊主力工場も含まれていた。

2011年には東日本大震災が追い打ちをかけた。大地震に加えて原発事故や水質汚染など立て続けに起きた想定外の出来事の中で、大八木は多くの人命をも預かることになる。

被災地には子会社、帝人ファーマが提供する酸素濃縮装置の利用者が2万5000人いた。「患者様が安心して在宅療養を継続できるように全力を尽くす」という行動理念のもと、全国の医療担当者を総動員して被災地に投入する一方で、原発事故の万一に備えて東北・北関東の社員と家族の避難計画も立てた。

「合繊の国内主力工場を閉鎖し、海外の工場にも大ナタを振るった。従業員ごと売却した例もある。いつ経済環境が好転するのか皆目わからない中で、さらにいつ非常事態が起こるかもしれない」

夜になると家から遠くの街灯りを見ながら、先行きの不安とそれを乗り越えなければならないという覚悟に身震いした。

1947年生まれ。1971年、慶應義塾大学経済学部卒業。同年、帝人入社。1975年に米国留学(バブソン大学、MBAコース)。医薬営業企画部長や東京支店長などを経て1999年に執行役員(東京支店長)に就任。その後、2001年に常務執行役員、2002年に帝人グループ専務執行役員。2005年に常務取締役、2006年に専務取締役に就いた。2008年からは代表取締役社長CEOを務め、2014年に取締役会長に就任

1947年生まれ。1971年、慶應義塾大学経済学部卒業。同年、帝人入社。1975年に米国留学(バブソン大学、MBAコース)。医薬営業企画部長や東京支店長などを経て1999年に執行役員(東京支店長)に就任。その後、2001年に常務執行役員、2002年に帝人グループ専務執行役員。2005年に常務取締役、2006年に専務取締役に就いた。2008年からは代表取締役社長CEOを務め、2014年に取締役会長に就任(写真:北山宏一)

「未来事業本部」の心を忘れるな

帝人には蛻変(ぜいへん)という言葉がある。昆虫が幼虫から成虫になるときに脱皮しながら生態変化する様を表現した言葉だが、新しいことにチャレンジして会社が生まれ変わらなければならないことを比喩している。

生え抜き社員である大八木が帝人に入社したのは1971年。当時、合繊繊維はすでに産業の成熟期を迎えていた。

「トップ自らが、蛻変(ぜいへん)を訴えていたことに感銘を受けました。私たちは、学生運動の世代です。大企業だが新しいことにチャレンジできるというのが入社の動機です」

数多くの新規事業への参入のため、帝人には「未来事業本部」という部署があり、エース級社員を惜しみなく投入していた。この中で唯一現在まで承継され、発展してきたのが医薬事業であり、大八木は米国ビジネススクールへの派遣の後、ここに組み入れられた。事業の、さらには帝人全体のトップに上り詰めたのもこの時代の経験が大きい。

帝人にとっては新規事業だが、ライバルは江戸時代創業を含めた老舗企業ばかりだ。「医薬品でどのようにして短期間に最大の収益をあげるかを毎日考える。他社や異業種との提携など、従来のやり方からは想像もつかないアイデアを絞り出す。ベンチャー企業そのもの、まさに『ゼロからの出発』の連続でした」

しかし、時の経過とともに、ゼロからの挑戦者でしか持ちえない強みもできてくる。新たに日本市場への参入を企図する海外メーカーから、帝人の市場参入のノウハウをぜひとも知りたいとして、提携話も進む。

また医薬品事業の傍らで、1970年代から研究開発を行ってきた呼吸器疾患をもつ患者のための在宅医療用機器にも保険が適用されることになり、現在の医薬医療事業の大きな2つの事業軸が出来上がった。因みに帝人は日本の在宅医療事業の創始者である。

このように大八木には、医薬事業チームのトップとして、『ゼロからの出発』に参画し、成功させてきた実績がある。

しかし数々の構造改革を経て、大八木の脳裏によみがえったのは、1970年代のトップによる変革へのチャレンジ精神だ。

壮大な目標を掲げ、若者のエネルギーを思う存分発揮させていた頃のトップのあり方。全社員を鼓舞し、働き甲斐のある夢の実現に向かってリードするのがトップの最も大切な役割だ。

大八木は、2012年初めに掲げた「中長期経営ビジョン」にそんな夢を込めた。「数字が非現実的だ、など後からはさんざんでしたが、いいのですよ。あのときの帝人にはかつての『未来事業本部』のような、夢の注入が必要だったのです」。

逆境にあっても「変わり続ける勇気」を忘れず、自らムードをつくり出す。未来を創造する責任を一身に背負う経営者の言葉には、すべてのビジネスパーソンに響く魂が込められている。(文中敬称略)

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*藤森氏と大八木氏は9月29日の「COMPANY Forum 2016」に登壇し、藤森氏は「世界で戦うリーダーになるために」、大八木氏は「変わり続ける勇気」をテーマに講演します。参加費無料・事前登録制のイベントですのでこちらでご確認のうえ、ぜひお申し込みください(応募者多数の場合は、抽選とさせていただきます)。

本講演はワークスアプリケーションズが主催するイベント「COMPANY Forum 2016」のセッションのひとつです。「COMPANY Forum 2016」では人工知能(AI)の世界最高権威者であり発明家のレイ・カーツワイル氏やアップルの元CEOジョン・スカリー氏、元大阪府知事の橋下徹氏などが登壇します。イベントの概要や見どころは、こちらをご覧ください。

(写真:風間仁一郎、北山宏一)