(Bloomberg) -- 子供が好きだというだけで仕事を続けていくことはできなかったー。元保育士の笹本沙紀(29)さんの経験だ。

都内でキャリアを6年半積み重ねたが、給料はすずめの涙で仕事はハード。人間関係のストレスもたまり心身ともいっぱいいっぱいとなり退職した。「我慢ができなかった」と振り返る。

保育士の資格は持つが保育園などで働いていない「潜在保育士」は厚生労働省によると全国に約76万人いると推定される。にもかかわらず現場で働く保育士が不足している背景には、強い規制と低賃金が横たわる。その改革は、女性の就労を進め労働力不足に対応しようとしている安倍晋三政権にとって喫緊の課題だ。

今のところ政府の対応策は、公費投入による保育の受け皿拡大が優先され、構造改革は後回しになっている。アベノミクス全体の傾向と同様の構図だ。統計・資料や関係者の取材を通じて見えてきたのは、保育を福祉と位置付ける戦後からの法制度の下で、保育士の賃金が低く抑えられ、離職へ追いやっているという構造的な問題だ。

安倍首相は女性が輝く社会の実現をうたうが、今のままでは保育士は「輝けるわけないですよね」 と、笹本さんは笑顔をみせながらも語った。

補助金と規制

現行の保育制度の根幹は、国の基準に基づいて都道府県が保育施設を認可する仕組みにある。認可を受けた施設には公立・私立問わず補助金が支給される。補助金額は膨大で運営費の8割以上をカバーしているケースもある。しかし補助金には規制も付く。保育時間や人員配置に加え、人件費も事実上規制がかかっている。

笹本さんが、都内の民営認可保育園に勤務していたときの月給は残業込みで手取り16万円台だった。昇給はわずかで、能力とは関係ない年功序列。規則で定められた書類作成にかかる時間が長く、子供にしっかり時間を割けなかった時もあったという。つらかったのは、保育時間の管理が厳しく働くお母さんの助けになれなかったことだという。例えば急な残業で1時間延長の依頼があったとき、「本当はオーケーって言ってあげたかったのに言えなかった」。

保育士不足が特に深刻なのが東京で、求職者1人に対して求人が約5つあるという状況だ。都が2008年から2013年にわたって3万1550人の保育士に対して行った調査では、5人に1人が退職を考えており、その最大の理由は低賃金だったという。

低賃金

昭和女子大学の八代尚宏特命教授(元経済財政諮問会議議員)は、保育所は女性の活躍を支援するだけでなく、それ自体が「成長分野」になれるにもかかわらず、政府が押さえつけるという非常に「もったいないこと」が起きていると指摘する。一つの解決策として介護保険のように特定の方法で財源を確保し、「育児保険」の形で利用者が施設を選べるようにして競争を促すべきだと提案する。「保育士が不足しているなら保育士の給料が上がるのが当たり前」と八代氏は言う。

厚生労働省の2015年賃金構造基本統計調査によると、保育士の月給(残業代を含む)は21万9200円で、全産業の平均33万3300円と比べて34%低かった。同省によると、2014年の保育士の離職率は約10%だった。

保育所行政を所管する塩崎恭久厚生労働相と、女性活躍担当を兼務する加藤勝信一億総活躍担当相は、保育士不足についての取材申し込みに応じなかった。

政府資料によると、安倍政権が発足した12年末以降、保育士には約6.9%の賃上げが行われ、うち3%が消費増税への対応だった。安倍首相は保育士について来年度予算での2%程度の処遇改善を表明している。8月2日に閣議決定した政府経済対策では技能・経験を積んだ保育士への月4万円程度の追加的な処遇改善が盛り込まれたが、内閣府政策統括官(経済財政運営担当)の新原浩朗氏によると、対象人数や予算額はまだ明らかでないという。

保育士9万人

   待機児童問題を解決するため安倍政権は、2017年度末までに50万人の保育の受け皿拡大を目指している。このうち30万人分はすでに手当て済みだが、問題は受け皿拡大に伴い追加で約9万人の保育士が必要となることだ。

全国で約160の保育施設を運営するポピンズの中村紀子代表取締役によると、保育士の確保・育成は困難を窮めているという。労働関係の政府有識者会議の委員を務めた経験もある中村氏は、保育業界は人手不足で仕事量が増加する悪循環の中で離職率も高いと話す。ポピンズでは14年に21園開園したが、今年は10園にペースを落とした。「その理由はすべて保育士不足」だという。

中村氏は、保育士が足りないと「大声で全国に叫んでいるところです、ポピンズは保育士を雇っていると」と話す。人件費や賃上げは政府が決めるべきではなく、会社に任せてほしいという。

 「補助金なしではやっていけない」と言うのは社会福祉法人どろんこ会の理事長を務める安永愛香氏(42)だ。グループ会社も合わせて年間約15の保育園を開設しており、今年度は400人以上の職員を採用、来年度も同数程度を採用予定。それでも人員確保が難しい地域があり、板橋区の認可保育園もその一つだという。施設を訪れると、入口付近には「メイ」「モモ」と名付けられた2匹のヤギが飼われ、園児が園庭をはだしで駆け回ってどろだらけになっていた。

赤ちゃんは投票しないが

賃上げはあるに越したことはないが、経営者にも年功序列の給与体系の見直しや残業時間の削減、また休みを取りやすくするといった改革はできると安永氏は言う。

「赤ちゃんは選挙で投票しないが、おじいちゃんおばあちゃんは投票する」と話すのはゴールドマン・サックス証券のチーフ日本株ストラテジストのキャシー・松井氏。女性の雇用促進を通じて経済成長を促すというウーマノミクスという松井氏の考えは、安倍政権でも受け入れられている。保育や子育て世代のサポートを「コストだと見る人も多いが、そうではなく投資だと見られるべきだ」と語る。

保育業界に力を入れた人材紹介会社ウェルクスの営業本部の森野秀史氏によると、保育士の賃金は認可外保育園ではさらに安くなる傾向があるという。補助金が得られないので人件費を含めた運営費を切り詰めたり保育料を上げて経営を成り立たせているからだという。

人材確保難は認可外も

認可外保育所が認可保育所と競争するのは容易ではない。待機児童数が1000人以上と全国一の世田谷区で認可外ラブクローバーのほいくえんを運営する代表取締役の富澤志保氏(41)は、経営は「かなり苦しい」と明かす。ビルの1階部分を借りて保育施設に充てている。100平米ほどのスペースを約20人の園児と7人の職員が使っている。

保育料は月に約13万円で世田谷区の認可保育園の平均保育料の5倍以上。毎年4月になると、認可施設への入園が決まった園児ら約半数が出て行くので経営がさらに苦しくなるという。人件費も抑えざるを得ず、保育士だけでなくスタッフの確保も容易ではないと富澤氏は話す。

認可保育園が増えるにつれて公費の負担も増加している。世田谷区によると、14年度の運営費は約188億円で、うち区が71%、都と国が13%をそれぞれ負担し、残りの16%が保育料だった。

サービスの対価

区は所得水準によって保育料を決めるが、平均すると月額約2万4000円だと
世田谷区保育認定・調整課長上村隆氏は言う。最後に保険料を引き上げたのは3年前だという。

根底には保育所をめぐる歴史的な経緯がある。戦後から一貫して保育所は児童福祉法の施設として位置付けられ、もともとは戦災孤児のために利用された側面もあると上村氏は話す。保育料も政策的に安く抑えられてきた。

上村氏は、保育行政の中では「サービスの対価を求める」という考え方はなかなか定着してないという。「児童福祉施設の利用料は安いに越したことがないというのが一般的に区民の意識でもあり、代表している区議会議員の意識でもある」と話す。

保育の質の向上のためにはもっとお金を払ってもいいと言う保護者もいる。東京・港区在住の佐藤友加里さん(40)はIT企業に勤務し、2歳の息子を認可保育園に預けている。新設された施設で、新人保育士が多く経験不足が心配だという。

フリーのベビーシッター始めたら

税金と同じで適切な使い方をしてくれるなら多少高い保育料を支払ってもいいと佐藤さんは考える。「安い方がいいに決まっていますけど、適切な保育が受けられるというのが大事」と話す。あれほど重労働で命を守る仕事なのに「所得が低いというのが明白の事実としてある」ことを、何とか改善できないのかとも思う。

佐藤さんは、保育園とは別に経験豊かな保育のプロを雇うことにした。冒頭で紹介した笹本さんだ。笹本さんは保育所勤務を辞めたあと、現在はフリーのベビーシッターとして働いている。佐藤さんは毎週火曜に保育園の後、時給2000円で笹本さんのサービスを利用している。

笹本さんがフリーになったのは2015年。保育士としての経験、技術を生かし、柔軟で決めこまやかなサービスを心がけ顧客の信頼を得てきたと笹本さん。単価の引き上げにもつながり、労働時間は減って収入が約2倍になったという。今では保育園を辞めたことは「まったく後悔していないです」と話している。

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