エリートvs.中間層。新たな闘争が始まった
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結果の不平等より機会の不平等が、世界中の中間層や下層の不満になっている。これは今後の日本でも大きな問題になっていくだろう。
一方、エリートは今のままがいい。頭がいいので、搾取も相続税逃れも得意だし、自分達に有利なルールを政治家に求める。
でも、歴史を見ると、行き過ぎた格差社会は革命でエリートの首が跳ねられるし、大き過ぎる世襲は可愛い息子がバカになることも多い。
エリートvs中間層というより「本当に頭が良いとはどういうことか?」は、エリートも含めて考えてみる必要がありそうだね。
ちょっと幸せ、なが〜く幸せ❤️世界中で浮かび上がってきた様々な対立をどのような切り口で整理したら良いか。難しいところですね。
そうした新しい対立軸の端的な例は、世界で最も大きな富を獲得した米国シリコンバレーの「リバタリアン」と「ポピュリスト」である共和党トランプ候補でしょう。
勝手に予言しますと、NPのこの特集は前者(リバタリアン)を擁護する方向で進むのだと思います。
リバタリアンの主張というのは、「資本主義が跋扈していく結果として経済格差が拡大したとしても、機会の平等が確保され、権力の腐敗が防げてさえいればフェアであるため、格差もまた致し方なし」とする考えです。
この連載は冒頭から教育等による「機会の平等」がいかに担保されるかという問題提起をしていますので、この時点ですでにリバタリアンの主張に乗っかっています。
「エリート」という言葉についてですが、日本人が一般的に「エリート」と言う時には、「霞が関の高級官僚」とか「一流大卒の東海岸系サラリーマン」なんかを無意識に想定します。
つまり、日本社会における伝統的な「エリート」とは、学歴偏重社会における勝ち組のことであり、一流大卒というパスを手にした者たちが進む高級官僚とか一部上場企業の新卒社員(+終身雇用)のような存在です。
こういう日本の伝統的なエリートというのは、ダイナミズムに乏しい社会における既得権益者であり、同じ勝ち組でも、グローバル資本主義の中で躍動する米国のリバタリアンたち(ピーター・ティールのような人たち)とは区別されるべき存在と見なされます。
世界中で顕在化している対立のなかで保守主義やポピュリストが敵視している相手はまさしく後者(米国のリバタリアン)であるため、彼らを「エリート」という和製英語で呼ぶことには拭いがたい違和感があるのだと思います。
凋落していく中間層の敵としての「エリート(?)」の正しい定義は、「国境を越えた市場化(この国境を越えるというのが問題の本質)によって無尽蔵な資本主義の拡大を進める資本家と、それを容認する政治家や思想家(新自由主義的な経済学者など)から成る集団」といった感じでしょうか。
この定義には日本の官僚は含まれません。