「好きなことを、好きなだけ」。話題のN高で見つける“自分らしさ”
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「私たちは高卒資格を取る勉強と、こうした課外学習をはっきりと線引きしています。前者は学習指導要領に定められた授業をやる場」これがどう出るかでしょうね。
奥平氏に対してこれを指摘するのは釈迦に説法でしょうが、これはhidden curriculumとして作用し、生徒たちに「五教科はいらないけどやらないといけないもの。本当はプログラミングさえできればいいはずなのに。バカバカしい」という意識を強烈に植えつけることになり、その結果、IT土方にはなれても真に自律的で発展的な人生を歩めるようになるかどうか、僕は疑わしいと思う。
そして僕にはN高校がそのリスクまできちんと勘案しているようには思えません。むしろ本当に「え、だって五教科くだらないじゃん」と短絡なとらえかたをしているんじゃないかと思える。
本当にプログラミング思考を学ばせたいとか、プログラミングを通じて論理的思考や世界に向けた意識を鍛えたいということならば、課外授業に逃げずともいくらでもやりようはあるし、高等学校ならばそれこそが目指すべき方向性であるはず。小金井市立前原小学校の松田校長先生のように、あくまでも正規の指導要領の枠組みの中でプログラミング教育を取り入れつつ論理思考や数学的思考を学ばせる実践を編み出している教育者はたくさんいます( http://blog.ict-in-education.jp/entry/2016/07/31/081616 )。
N高校からは、その気概が感じられません。Linuxの発案者リーナストーバルズ
http://engineer-intern.jp/archives/31969
リーナス氏が良く語るのは、「別に誰かと何かを成し遂げたいと思ったわけではない」「ただ、コンピュータが好きだっただけだ」と言っているように、好きこそ物の上手なれである。
好きな事を好きなだけやれるのは学生という身分の時くらい。やらせてあげればいい。
加えて、現教育で足りてない考え方はこれじゃないのか。リーナスもエジソンの名言を引用しているが、
「私がはるかかなたを見渡すことができたのは、それはひとえに巨人の肩に乗っていたからだ(先人の業績を参照できたからだ)」
日本の知は昔から、国内の他校との差別化だけにお熱、日本の考え方などに溺愛する(例えば学校の掃除当番制度をインドに絶賛されたら大喜びするものの、他国のアイディアを積極的に取り入れたものはあまり無いように)が、そうではなく、小人であれば、巨人の肩に乗ればいいのだ。絶えず学び、巨人に登ると違った風景が見えてくる。という考え方をもっと大人が心得るべき。
東大は未だに情報科学部も無いし、出願は紙である。