【溝口敦】暴力団、新興宗教……タブーにこそマーケットがある

2016/7/17
異才の思考」第9弾は、暴力団や新興宗教、同和利権、裏社会などのタブーに迫り続けてきたノンフィクション作家・溝口敦氏だ。
溝口氏が選ぶテーマと企画は、常に刺激的だ。近著の『闇経済の怪物たち──グレービジネスでボロ儲けする人々』も、日本経済を裏側から切り取った意欲作となっている。生み出した作品は、読者の関心を喚起するだけでなく、その告発によって取材対象者が逮捕されるなど、社会を動かすことも少なくない。
時には、命の危険に直面しながらも筆を止めることはない溝口氏。その思いについて聞いた。

僕を殺したら、本が売れちゃうよ

──溝口さんは“タブー”を扱う作品が多いですが、なぜそうした問題を取り上げているんですか。
大きく言えば2つあります。1つには、書く人間が少ないのに、そういう世界を知りたがる人が多いからです。そこには一定の“マーケット”がある。端的に言えば、市場が読める。本を出せば、ある程度売れるんですよ。
そもそも、本を書いても読者に読んでもらわないことには、始まらない。やるかいがないと思っています。
山口組は日本最大の暴力団であり、創価学会は日本最大の信者数を誇る宗教団体です。これだけ大きな組織が「実はこうなっていた」と明らかにすることは、読者の好奇心に応えることになるわけです。
秘匿性の強い組織に日の光を当てることは、社会的な意義もあります。誰もが知っている話は、改めて取材しても新味は出しにくい。
そしてもう1つは、組織と、組織の中でうごめく人間模様が面白いこと。暴力団や新興宗教は、人間の動きが極端な形で現れます。普通の会社では殺し合いなんて起きないでしょう。
サラリーマンが動き回るだけだと、ダイナミックさに欠ける。経済を描くにも、『闇経済の怪物たち』のように、ネット裏情報の提供業者やデリヘル経営者、危険ドラッグの仕切り屋の方が、新味がある。
僕は、“面白がり”です。自分が面白く思わないテーマに対しては筆が進まない。非常に下世話なアプローチですよ。
──タブーに迫る中で、1990年には組員とおぼしき男に刺されて重傷を負い、2006年には山口組系元組員に長男が襲撃され、同じく重傷を負いました。それでも書き続けている理由は。僕がある程度はヤクザを知り、タカをくくっているからでしょう。「やるならやってみろ」という気持ちがあります。そういう気持ちの張りは持っていると思います。
それに、これもある意味ではさっきのマーケット思考が働いているんです。つまり、「殺してみろよ。殺したら、お前を取材したこの本が売れちゃうんだよ」と、牽制(けんせい)しているわけです(笑)。
そもそも、世間に絶対安全な商売なんてないですよ。警察官の方が危ないんじゃない?というくらいの認識です。
大手メディアは自社の社員を危ないところに派遣しなかったり、社員も自分から行かなかったりするけど、そういう人に対しては「何のためにこの商売を選んだんだろう」って思います。
やっぱり、組織の人間は弱いけれど、個人は強い。自分一人の責任で済みます。
溝口敦(みぞぐち・あつし)
ノンフィクション作家、ジャーナリスト
1942年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。出版社勤務などを経て、フリーに。2003年『食肉の帝王』(講談社+α文庫)で講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『暴力団』(新潮新書)、『細木数子 魔女の履歴書』(講談社)、『詐欺の帝王』(文藝春秋)、『パチンコ「30兆円の闇」』(小学館文庫)など多数。

暴力団からの“信頼”

──暴力団を取材することになったきっかけについて教えてください。
早稲田大学卒業後に徳間書店に入社して『週刊アサヒ芸能』で半年ほど原稿を書いていました。そこから、月刊『TOWN』という新しい雑誌の創刊準備室に配属されたのですが、編集長の方針でドキュメント路線を打ちだし、3号目に山口組を特集する企画をつくることになったんです。
僕がその編集担当になりました。当時、関東では山口組なんてほとんど知られていなかったし、元々ヤクザに関心なんてなかったんだけれど、面白そうだなと感じました。
そこで、若手の作家と一緒に神戸の山口組を取材しました。当時の兵庫県警が非常に協力的で、20日くらい泊まり込みで調べましたね。
ところが、その作家が書いた記事はエッセー風で、取材成果が生かされていなかった。すると編集長から「お前が書け」と僕に白羽の矢が立ったんです。アサヒ芸能で記事を書いていたので、書けるだろうと思ったらしいですね。いざ僕の記事が掲載されると、すごく評判がよかった。これが最初のヤクザルポでした。
取材してわかったのは、山口組も一枚岩ではないということ。主流派もいれば反主流派もいる。組長の悪口を書く際に協力してくれる幹部もいる。「山口組批判をしていると、内部の取材はできないのではないか」と思われるけれど、そんなことはない。それも面白さです。
その後、2年10カ月で徳間書店を退職してフリーになった時に、別の出版社からこれまでの取材をまとめてみないかと言われて、『山口組ドキュメント 血と抗争』を書き上げました。
これがロングセラーになって、5年間くらいずっと印税が振り込まれたんです。当時のお金で毎月10万円ほど。印税で結婚式も挙げたし、小さな家を買うこともできた。そのときに、「本を書いたら売れるんだ」と思ったわけです。
──暴力団取材はどのように進めているのでしょうか。
最初の取材で知った山口組の人間の中には、その後に偉くなった人間もいました。そこから人を紹介してもらうこともありましたね。
また、ずっと取材しているので、今の暴力団の幹部ですら会ったことがない古い世代を知っているので、一目置いてくれるところもある。
僕は、おべんちゃらは言わないし、自分が正しいと判断できることしか書きません。だから、「圧をかけても溝口は言うことを聞かないぞ」という見方も出てきたし、一本筋が通っているとも思われているんでしょう。
変な言い方だけど、僕は彼らからも一定の信頼を得ているということです。
たとえば、神戸山口組を旗揚げした山口組直系組長の一人で、後に幹部になる人間が、旗揚げの1年以上前、僕に連絡してきました。
これまで面識がなかったにもかかわらず、「山口組から出る計画がある」と打ち明けてくれたんです。僕が記事にしたら計画それ自体がとん挫するにもかかわらず、その前に僕を信用してくれていた。
もちろん発足するまで、それについては何も書かず、人にも話さなかった。
──なぜ、その話を溝口さんに伝えたのでしょうか。
理解を求めていたんじゃないかな。ただ伝えたかったとでもいうしかない。彼は「いざ旗揚げしたらよろしくね」とは言わない。僕も話を承って、それ以外は何も言わない。彼は伝え、僕は聞いた、それだけのことです。
僕は、神戸山口組のたくらみがいいか悪いかは別にして、そういう動きを潰そうとは思わない。新聞記者などの中には「こんな記事を書けば世の中はこう変わるだろう」と動く人もいるけれど、僕はそういう考え方が嫌いです。
当事者じゃないんだから、現実に与える影響は少なければ少ない方が良いと思っています。書き手はあくまでも第三者です。

博報堂に勤務も、仕事に嫌気がさす

──最初の暴力団取材後は、小説も手がけていますね。
本を書けば売れると刷り込まれたので、2作目は学生時代から書きたいと思っていた小説に取り掛かったんです。そして、1年4カ月くらいかけて大塩平八郎を題材にした歴史小説を出版しました。でも、さっぱり売れなかった。エンタメ小説以外は全くダメでしたね。
そんな頃、1970年に言論出版妨害事件(創価学会・公明党が、同組織に批判的な出版物の出版、流通を妨害したとされる事件)が起きたことをきっかけに、創価学会がメディア上で問題になっていました。
でも、誰も当時の創価学会会長だった池田大作について、まともに書いていなかった。そこで、僕は彼が主眼だと思ったから、『池田大作 権力者の構造──堕ちる庶民の神』を書いたんです。これが宗教取材の始まりです。非常に評判が良くて、今では創価学会批判本の古典のようになりました。
──意外な経歴に思えますが、その後は博報堂に在籍しています。
日々の生活のこともあって、出版社の知り合いに「何かアルバイトないですか」と聞いたら、「博報堂ならあるだろう」と言われたんです。
そこで話を聞くと、「アルバイトはないけど、社員ならある」と言われ、結局、正社員として7年4カ月くらい勤めた。PR計画部という部署です。
でも、次第に企業のパブリシティなどで「メディアに取り上げてもらう」仕事をすることに嫌気がさしたので、また書く仕事に舞い戻りました。
その頃には、創価学会問題が社会に広く知られているようになっていて、週刊誌が特集を組み盛り上がっていた。そこで、改めて創価学会などの宗教問題に取り組み始めたんです。

細木数子を“消した”連載

──その後は、暴力団や宗教に関する取材以外にも、『細木数子 魔女の履歴書』や同和問題を描いた『食肉の帝王』など多くの話題作があります。企画についてはどのように進めているのでしょうか。
自分の頭だけだと限界がある。編集者との世間話の中で企画が出ることもある。たとえば、細木数子については週刊誌の編集長に頼まれ、受けた仕事です。
当時、僕としては「テレビでよく見る嫌なババアだなあ」くらいにしか思っていなかったのだけれど、どうやら彼女には後ろ暗いところがあり、周りにヤクザがたくさんいるようでした。
そこで、「今メディアで注目されている細木数子という人物が、どういう人間か調べてみよう」と取材を進めたわけです。
結果的に、この連載がきっかけで彼女は表舞台から消えることになりました。しかし、僕としては「テレビに二度と出られないようにしてやろう」と言う気持ちで取材したわけではありません。あくまでも、事実を積み上げ、それが明らかになった副産物でしかないんです。
僕は、言うなれば江戸時代の戯作(げさく)者。無責任に聞こえるかもしれないけれど、やじ馬の物書きです。書くということは、つまらん年寄りが片隅でつぶやいているのと同じだろうと考えているし、そういう態度が好きなんです。考えは左寄りですけど、政治に主体的にかかわろうとは思わない。
──いずれの作品も濃密な取材とそこで得た証言に基づいていますが、どのようにしてこうした作品を生み続けているのでしょうか。
自分に取材力があるかは分かりません。ただ、人への理解力、判断力はある方だと思います。また、目つきが鋭い、刑事みたいだ、人相が怖いとか言われるけれど、見た目よりも人には好かれる(笑)。そこで、信用してくれるところが大きいんじゃないのかな。

プロの物書きとして必要なこと

──雑誌の廃刊が相次ぐなど、ノンフィクションの書き手にとって非常に厳しい時代だと言われますが、この点についてはいかがですか。
確かに、ノンフィクションを発表する媒体が壊滅状態です。枚数を書けるところはとても少ない。
でも、僕は『月刊現代』が廃刊になった時のパーティーの席上でこう言いました。
「悲観することはない。雑誌がなくても、新書で書けばいい。ある人は、新書の前にネットがあるともいう。それでもいいじゃないか」
書こうと思えば、メディアはいくらでもある。月刊誌は取材費をくれたけれど、それがないから書けないわけじゃないと思います。
取材費に関しても、往復の交通費と宿泊費くらいは自腹で払うぐらいの気持ちが必要。どんな商売でも経費はかかるくらいの認識でいないとね。ノンフィクションはフィクションよりもお金がかかると言う人もいるけれど、根本的な問題ではないでしょう。
──若手の書き手を見て感じることはありますか。
僕は「小学館ノンフィクション大賞」の選考委員をやっていたことがありますが、そこで若手の作品を読みながら、「果たして作者は、読者に読んでもらおうと思っているのか」という疑問を覚えました。
テーマ選びがマイナーすぎるんです。本になった後、読者が2000人もいればいいような作品が多い。「売れなくてもいいだろう」じゃなくて、プロなら売れてナンボだろうと思うんですけど。
もちろん、その人にしか書けないテーマで、何が何でも世に残さなければいけないほどの重要性があれば別でしょうけれど、原則としてはマーケットが想定できるテーマを選ぶべきです。
プロとして、職業として物を書くなら、収入につながらなければいけない。逆に言えば、書く仕事が生計のもとになって初めてプロです。
──一連の仕事に対して、“異端の存在”として評価する人もいます。
異端に見えるかな。当たり前のことをやっているだけだと思います。運が良かったとすれば、最初の一冊が当たったこと。それがなければ今の仕事もしていないかもね。
でも、物書きというのは、自分の言いたいことが言えて、書きたいことが書ける職業です。普通に生活していたら、なかなかできないでしょう。もうけものの仕事だと思いますがね。
──それでは、今後の取り組みについて教えてください。
暴力団に関してはずっとやってきたので、最後に体系だった本を書いて、それで打ち止めにしようと思っています。それから、過去の取材を脚色した小説を予定しています。今まで何作か小説を書いては来ましたが、心の底から本当に書きたいと思える小説になります。
もちろん、マーケティングの話とつなげるなら、これを出版したら売れるだろうとは思っていますよ。
まあ、取らぬ狸(たぬき)の皮算用になるでしょうけど(笑)。