20160624-watson

東大医科学研究所、宮野悟教授に聞く

「もはや人智、人力を超えた世界」。Watsonが起こしたがん研究革命

2016/6/30
東京大学医科学研究所のヒトゲノム解析センターでは、日本人の死因の約30%を占めるがんへの対応に向け、2015年7月に「IBM Watson」を北米以外の医療研究機関として初めて導入した。がん治療に必要不可欠なゲノム解析のカギを握るのは、電子化された膨大な知識情報に基づいて巨大なデータを解析し解釈すること。不可能ともいえる大量の時間を要するこのプロセスを、Watsonはサポートしている。東京大学医科学研究所教授でヒトゲノム解析センター長を務める宮野悟氏に、Watsonがもたらすインパクトを聞いた。

1年かかる作業を30分に短縮

──がん治療の研究現場で、すでにWatsonが実践的に活用されています。具体的にどのような使い方をしているのでしょうか。

宮野:その前にまず、がん研究の現場についてお話します。人間の細胞には「ゲノム」という遺伝子情報があります。がん細胞にもこのゲノムがあるのですが、がん細胞では数千から数百万カ所に遺伝子変異が発生していて、その変異の組み合わせによってがん細胞の性質は異なります。

どんな遺伝子変異が起こっているかを「ゲノムシークエンス」という方法を用いて網羅的に調べます。そして、どの変異が患者さんの病態の原因になり、またそれを解消するための最適な薬や治療方法は何かを、これまでに発表された膨大な数の論文や実験結果、過去の治療事例を探して判断します。

つまり、膨大なデータ解析が必要なわけです。がんについての研究論文は2015年だけで20万報を超え、がんの知識も変異の種類も急増しています。

コンピュータはこの情報を全部読めるのですが、個々の人間が持っている知見や経験は「井の中の蛙」状態です。そこでWatsonに可能性を感じました。米国の人気クイズ番組「ジョパディ」の人間チャンピオンに勝ってしまうようなテクノロジーでしたから。

Watsonを使ったサービスにはいくつかのメニューがありますが、その中でも「Watson for Genomics」(導入当初のサービス名称は「Watson Genomic Analytics」)を活用しています。東大医科研のスーパーコンピュータ「Shirokane3」で行うゲノムのデータ解析とWatsonを連携させました。

このWatson for Genomicsではまず、2000万報を超える論文や過去の事例報告、1500万件以上の薬の特許情報、分子生物学で半世紀以上にわたって微に入り細に入り研究してきた生命のメカニズムの情報を読み込ませ「理解」させます。

そのうえで、Shirokane3で特定した患者さんの変異データを入力すると、Watsonが最適な薬と治療標的となる遺伝子を提案してくれます。

生命系の論文には間違いが少なからずあり、それについても学習済です。魅力的なのは圧倒的なスピード。ある大腸がんの全ゲノム解析のケースで言えば、人間がやったときは、ほんの一部だけで1年かかった変異データの解釈を、わずか30分で行うことができました。

注意しないといけないのは、医師や患者さんの目から見た時にWatsonが担当する患者さんの遺伝子変異の解釈部分以外で時間がかかることです。

例を挙げると、患者さんから同意を得て腫瘍細胞を採取し、「シークエンサー」と呼ばれる機械で遺伝子配列を読み取り、大規模なコンピュータを使って遺伝子配列を決定。その中の変異情報を確定させていくことなどに何日もの時間がかかります。

全体のスピードアップにまだ取り組む余地は多分に残されていることも忘れてはなりません。

──データの照合であれば、ビッグデータの解析ができるスーパーコンピュータさえあれば可能なのでは?

そう単純な話ではありません。数字など構造化されたデータだけであれば、単純な解析システムでもいいかもしれませんが、論文などの非構造化データを読み込み、その内容を理解することはできません。人間が用いる自然言語を理解して学習し、推論し、解決法を見つけ出す能力があるWatsonだからできるのです。

宮野悟(みやの・さとる) 東京大学教授。東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長 1977年九州大学理学部数学科卒業、1985年から1987年にかけて西ドイツ・アレクサンダー・フンボルト・リサーチ・フェロー、1987年に西ドイツ・パーダーボルン大学情報科学科助手、1987年九州大学理学部附属基礎情報学研究施設助教授。1993年同教授を経て、1996年より東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター教授(現在まで)、東京大学大学院情報理工学系研究科教授を兼務。2014年より、東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長に。理学博士(九州大学)

宮野悟(みやの・さとる)
東京大学教授。東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長
1977年九州大学理学部数学科卒業、1985年から1987年にかけて西ドイツ・アレクサンダー・フォン・フンボルト・リサーチ・フェロー、1987年に西ドイツ・パーダーボルン大学情報科学科助手、1987年九州大学理学部附属基礎情報学研究施設助教授。1993年同教授を経て、1996年より東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター教授(現在まで)、東京大学大学院情報理工学系研究科教授を兼務。2014年より、東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長に。理学博士(九州大学)

専門分野の壁が消えた瞬間

──Watsonを導入して得られた効果は、時間の短縮だけですか。

医師や研究者同士の情報共有、連携の促進もメリットです。医師や研究者にはそれぞれの活動領域があり、がんの種類や性質ごとにそれぞれの領域で個別に成果を発表して交流し、専門の論文誌で知識を得ることが大部分を占めています。

血液腫瘍の研究者が大腸がんの研究者と交わる機会はあまりありません。しかし、世界中の研究で主な種類のがんについて、その変異の全貌が明らかにされていく中、専門性の異なる知識が交わったほうが良いと多くの方々が思っています。

ただ、自分が専門としないがんの論文など読んで勉強するゆとりは、多忙な医師の方々には通常ありません。もちろん超人的な人もおられますが。

Watsonは、2000万報を超える論文情報をはじめ、がんの変異や生命のメカニズムに関する膨大な知識を持っています。

患者さんのがんの変異データを入力すると、これまでに報告されているすべてのタイプのがんについてだけでなく、一般的な細胞内のメカニズムの知識をWatsonはすべて利用して推論し、抗がん剤の候補とその標的とする遺伝子を提示します。

その結果、血液腫瘍の患者さんで見つかった遺伝子変異が、実は脳腫瘍でも見つかっていて有効な薬剤が最近の論文で報告されていることがあります。そんな時、血液腫瘍の専門家は「私たちがこの論文を読むことはまずないですねぇ」と唸ってしまいます。

専門分野の壁が消えた瞬間です。そして専門分野の壁を越えた人のつながりのはじまりです。
 OLYMPUS DIGITAL CAMERA

使えば使うほど強力な知能

──Watsonに今後求めることとは?

「Watsonに」というわけではないのですが、まだまだ「知識」が足りません。データが膨大とはいえ、一つひとつのがんに最適な治療方法を提供するにはまだデータが足りないんです。基礎研究にもっと力を入れなければと思っています。

使い続ければ使い続けるほど知識がたまり力が増すシステムですから、より一層データを蓄積し、Watsonが活動できる範囲をもっと広げていくことができればと思っています。

──医療業界は電子カルテシステムなどITの導入が遅れていた分野で、今もなおほかの業種・業界に比べてIT導入に対する壁が厚いように思います。

IT化が遅れた原因は、個人の経験や、形式化されていない自然言語で記述された部分が大きかったこと、診療報酬など経営の観点から医療機関や医師がITを率先して取り入れることが難しいことなど、さまざまな要因があると思います。日本の医療制度や法律がIT化をあまりサポートしていなかったこともあります。

ただ、豊富な知識がベースとして必要な医師にとって、時間の有効活用と正確な診断のために、そして何よりも患者さんのためにWatsonのようなテクノロジーが必要なのは明らかです。

過去のやり方にとらわれるのではなく、新しいテクノロジーに対して積極的に取り組む意識が求められます。同時に、患者さんの心を常に中心に置いて進めることが大切です。

医学にテクノロジーは必須の時代です。新たなテクノロジーを医療機関が導入しやすくするために政府も資金や制度を充実させ、医療機関や医師、研究者は意識を変える必要があると思います。Watsonのようなコグニティブソリューションは、より良い医療環境をつくるために必ず貢献します。

(取材・文:木村剛士)