【資生堂・原田忠】業界の枠を超えた挑戦が新たな価値を創造する

2016/6/19

自衛隊での挫折を経て美容の世界へ

──原田さんの実家は美容院ですが、最初から美容師を目指したわけではなく、自衛隊に入隊しています。
子どもの頃は、美容師になりたいという気持ちはまったくありませんでした。母親が美容師なのですが「男性が立ち入れない女性の世界」というイメージが強かったですね。魅力ある仕事というよりも生活の一部でした。
僕は、群馬県沼田市の山と川に囲まれたのどかな田舎町で育って、何となく退屈だなという思いを心に抱えて過ごしていました。そんな自分を、唯一非日常の世界に連れて行ってくれたのが、時折飛んでくる、轟音(ごうおん)を響かせて大空を旋回する自衛隊の戦闘機でした。
「あの戦闘機が向かう世界に行けば、自分の可能性や夢が見つかるかも知れない。ここではないどこかに行けるんじゃないか」
今思えば、日々の鬱屈(うっくつ)を払拭(ふっしょく)できる存在として、自分自身を投影してしまっていたんでしょうね。
原田忠(はらだ・ただし)
資生堂トップヘア&メーキャップアーティスト
1971年生まれ。群馬県出身。航空自衛隊航空管制官を経て、美容師となる。その後、サロンワーク勤務を経て、1999年にヘアメーキャップスクールSABFAを卒業、2000年に資生堂入社。資生堂の宣伝広告のヘアメークを中心に、NYやパリ、東京コレクションなどでも多岐にわたり活動。2016年4月からは、SABFAの校長も務める。
そこで、自衛隊に入隊してパイロットの試験を受けたのですが、適性がなくて、いきなりの挫折。航空管制官としての適性はあったので、その資格取得をしながらパイロットを目指そうと思いました。
ところが、管制官になるだけでもクリアすべき試験がたくさんあり、そちらに注力しなくてはいけず、夢を諦めざるをえなくなったんです。
管制官は、人の命を預かる重い責務を負う仕事でしたから、やりがいはありました。でも、将来をイメージした時、定年までずっと自分がかなわなかった夢をサポートする仕事は、正直苦しかったんです。
また、無線だけでパイロットと交信をする日々に、コミュニケーションの希薄さも強く感じる自分がいました。自分の中の歯車が少しずつ狂い始め、もう一度自分を見つめ直すためにも、すべてをリセットすることに決めました。
自衛隊を辞めようと思ったとき、頭に浮かんだのが実家の美容院でした。お客さまをきれいにしてさしあげ、ありがとうと言ってもらえるコミュニケーションの原風景。知らず知らずのうちに、そんな素晴らしい環境で育っていたんだなと気づき、改めて美容が魅力的に思えたんです。
美容学校に通い始めたのは、他の生徒よりも3年遅いスタートでした。この3年のブランクに対する焦りの気持ちがとても強かったですね。「早く一人前の美容師にならなければ」ということだけしか考えていませんでした。
──卒業後は、いわゆる人気サロンを選択していません。
はい。当時の担任の先生から「子どもの七五三から、年配のおばあちゃんまで対応できる幅広い技術を身につけてこそ一人前だ」と言われたんです。
そして、田園調布の閑静な住宅街の近くにある、地域密着型の美容室を勧められたため、そこで働くことにしました。
浮ついた気持ちで、原宿や青山の美容室を見学しに行ったこともありました。でも、幅広い世代のお客さまに対応できる技術の教育システムがしっかりしていれば、たとえ郊外であっても、厳しい環境の中で鍛えてもらったほうが、自分の性に合っているんじゃないかと考えたんです。

無責任だった姿勢に気づいた

──美容師から、美をトータルに扱うヘア&メーキャップアーティストに転身した理由はどこにあったんですか。
ある時、「お客さまの髪の毛しか見ていない自分」に気づいたんです。
お客さまのメイクやファッションはもちろん、趣味嗜好 、ライフスタイルを聞かずに「今日はどうしましょうか」とか「前髪は何センチ切りましょうか」と、ずっと同じ接客で仕事をしていました。
僕は、その姿勢がお客さまに対して無責任だと思ったんです。その人を知れば、もっといろんな提案ができるのに、それを怠っていたわけですから。
このまま漫然と美容師としてキャリアを積む前に、もっと美容に関する幅広い知識と視野を持つための勉強が必要だと思いました。
そこで、自分が「これは」と目に留まるアーティストのヘアスタイルや、気になる雑誌広告やCMなどを手がけている人たちのプロフィール を調べている時に、SABFA(Shiseido Academy of Beauty & Fashion)という資生堂が主催するプロのヘア&メーキャップアーティストを養成する学校が存在するということを知ったんです。
学校案内を取り寄せ、カリキュラムを見てみると、デッサンから、色彩や造形、ファッションの歴史に至るまで、勉強することがたくさんありました。
「こんなにやらなくちゃダメなんだ。美大みたいだな」と思ったんですけど、美を多角的に勉強できる場所はここしかなく、自分を徹底的に追い込める環境があったことが、とてもうれしかったことを覚えています。
学校では、その人らしい美しさをかたちづくるためのゴールにはいくつもの道があり、さまざまな角度から分析、選択するプロセスが大切だという気づきを得ました。
美しさは一つではなく「似合わせ方が無限にある」。そこに、美容の奥深さと表現の可能性を感じたんです。
──その後、なぜ資生堂に入社を決めたのでしょうか。
卒業後は、いつかはサロンを開くか、映画やファッションの世界に行こうかなと、漠然と考えていたのですが、資生堂にヘア&メーキャップアーティストとして採用される道があることを知りました。
採用枠は1人だけでしたが、せっかくのチャンスだと思い受験したんです。結果、縁あって入社することになりました。
受験者の中には、僕よりも技術的にうまい人はたくさんいました。何で僕だったのかなと考える時もあるんですが、1年間の学生生活での授業への取り組む姿勢や、それぞれの科目の評価はもちろんですが、社会性や人間性も含めたバランスが評価されたのかもしれません。
ちなみに、面接では周りがものすごくカジュアルな中で、僕だけジャケットとパンツを身に着けていました。自衛隊時代の身だしなみ術が、この時ばかりは生きたようです(笑)。

結果を出すことにこだわった

──資生堂入社後は、数々の賞を受賞するなど大きく活躍します。初期は、ダークな作風で注目を集めました。
作風に関しては、映画や小説、アニメ、漫画などに限らず、ダークなファンタジー要素が強いモノが好きだったことが影響しています。同時に、当時の心理状況も多分に影響していたようにも思います。
会社には、資生堂の美容学校から入った方や、僕のように外部から途中入社した人間まで、いろんなバックグラウンドや年齢の方がいました。その中で、自分のオリジナリティーを見つけ、早く認められたいという思いがありました。
入社1年目から心がけていたのは、とにかく結果を出すこと。ひたすら練習を続けて、コンテストには欠かさず出場していました。ただ、入社したばかりでは、なかなか結果も伴わず、認められません。
今思うと、がむしゃらに頑張って苦しかった思い出しかないですね(笑)。
作品づくりは自分の内面をえぐるような感覚で、上辺だけの美しさや可愛さ、かっこよさじゃなくて、人間の心の内側に見え隠れする耽美(たんび)的、不道徳的、禁忌的など、現実的な美に対するアンチテーゼとして、あやしくもなまめかしい作品創りを模索していました。
暗闇でほのかに光に照らされて存在感を増すような表現とはなにか? 谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の考え方に近いですかね。
2004年度 Japan Hairdressing Awards(JHA)グランプリ作品
自分と向き合い続けること、作品の世界観を突き詰めることで、誰かの記憶に残るんじゃないか、業界の中で自分の居場所が見つかるんじゃないかという思いもありました。だから一つひとつの作品には、相当な熱量や思いを込めて取り組みました。
当時の上司からは、「ヘアメイクはいろんな表現ができてこそヘアメイクだから、違うイメージの作風にチャレンジしてみたら」とアドバイスも受けたこともありました。
でも、僕はまだ自分の作品に納得できていなくて「まだこの世界観でやらせてもらっていいですか」と言ったんです。そうしたら「わかった、飽きるまでとことんやれ」と理解してくれる上司がいて、その一言で水を得た魚のように自分の作品表現にのめり込んでいきましたね。
エールとして頂いた一言が、自分のオリジナリティを見つけるきっかけであり、初期の作風ができあがる後押しとなったといえます。

コミュニケーションする作品へ

──その後、作風が大きく変化します。
作品を通じた美容表現は、自分の内側に向き合い続け自己表現をするものだと信じて、ずっと取り組んできました。でも、その世界観を十分に表現しきると、その後の作風や表現に悩むようになりました。
そんなとき、東日本大震災や、同じタイミングで子どもの誕生を経験したことをきっかけに、自分の中でかたくなにこだわっていた何かが吹っ切れたんです。
作品に夢や希望を感じてもらえるようなメッセージ性を込めたい、作品を通じて観てくれた人とコミュニケーションをとりたい、と思うようになりました。
そんな気持ちを込めて創作した作品が、美容業界でもっとも権威のある賞『Japan Hairdressing Awards(JHA)』で、2度目のグランプリを受賞しました。
これを機に、もっといろんな世界とつながっていきたい、さらに表現の可能性に挑戦したいと考えるようになったんです。
2012年度 Japan Hairdressing Awards(JHA)グランプリ作品
──今の原田さんにとって「美しさ」とはどういうものですか。
「これこそが美しい」という断定的なものはなくて、時代が変われば、人が変われば美しさの在り方も変化していくものだと考えます。
また、それぞれの人にそれぞれの美しさが宿っていると思いますし、表面的ではない、内面から湧き出る美しさを、どうやって引き出すことができるかを追求することが、自分の役割であるとも考えます。
また、世代や年齢、状況や環境によっても求められる美しさは違います。人生において大切な瞬間はもちろん、日々の生活に寄り添い、美容の技術をもって、その方の幸せのためのお手伝いができればいいなと思っています。
だからこそ、僕はコミュニケーションをとても大切にしています。その人の趣味や嗜好、ライフスタイル、髪の悩みやなりたいイメージを共有し、しっかり理解したうえで、はじめてお客さまに対して美を提案できると思いますし、その要望に応えられるよう技術や知識の引き出しをたくさん持っていなくてはなりません。
日々の技術の研鑚(けんさん)と知識の吸収を怠らないこと。それが美しさを表現する人間に課せられた責務であり使命なんじゃないかと思います。
──2016年4月からは、母校であるSABFAの校長も務めています。学生を教育する立場にもなります。
学生を導くうえでも、一人ひとりに寄り添いながら、目指す姿を共有しなくてはいけないと思うんです。ただカリキュラムをこなしてもらうんじゃなくて、モチベーションを高め、夢を実現できるようなサポートができればいいなと考えています。
そのためにも、校長という従来のイメージを払拭できるよう、僕自身が現役であり続け、今以上に頑張って突っ走っている姿を見せていかなければと思います。
「校長先生が頑張っているから、僕らも私たちも頑張ろう」と思ってもらえたらうれしいですし、自分が目指す校長像であるように思います。
──原田さん個人としては、今後どんな挑戦をしたいと思いますか。
ヘア&メーキャップの枠を超えた活動を目標に、新たな美の価値創造や、革新的な表現に挑戦し続けていきたいですね。
どんな仕事もそうですが、1つのモノをつくりあげるためにはそれぞれの持ち場のプロフェッショナルが集まって、それぞれが最高のパフォーマンスを発揮するからこそ、より良いモノづくりができると考えます。
だからこそ、美容業界を超え、さまざまなジャンルのプロフェッショナルな方々との接点をもって、「モノ」や「コト」創りを積極的に行っていきたいです。
ももいろクローバーZ 「AMARANTHUS」
そういった挑戦が世の中にないモノを生み出し、新たな美の価値を生み出すと信じていますし、その結果、誰かの役に立ち、誰かの笑顔につながっていく。
そんな連鎖反応が起こるとうれしいですよね。それが励みになり、さらに頑張れるんだと思います。
また、美に携わる人間は、自身が健全であり健康でなければ美は表現できないと考えます。生活習慣や健康管理を意識し自分を大切にできてこそ、相手への思いやりや配慮ができると思うんです。
これからも真摯(しんし)に美容を続けられるよう、体力と健康を維持して美容道を突き進み、美容の素晴らしさを多くの方に届けられるよう、頑張っていきたいと思います。
(写真:是枝右恭)