新着Pick
208Picks
Pick に失敗しました

人気 Picker
日本軍によるシンガポール陥落は1942年2月なので、確かにこの方の記憶の正確性には疑問がある。

「事実確認ができない以上、『その講演者が話した』という事実を書いた」というのが、詭弁、屁理屈であることはすぐ分かる。

講演者の話した内容の妥当性に責任を負わない姿勢が問われる。ウソでも虚構でもヘイトでも、「話した事実」は存在する。検証できなかった「事実」を示さず、何の注意も喚起せず、結果としてバランスを欠いたことが問題なのだ。都合の悪いことは言わない姿勢と同じ。

今後は、千葉日報の報道は注意して見るようにしよう。
この記事はなかなか深い。そもそも「過去の事実」とはなんなのか、という哲学的な問いに行き着く。この問い、よく考えると、「過去の真実」に厳密な定義を与えることはなかなか難しいことに気づく。時間の流れに伴い全宇宙で起きる全ての事象のうち、直接的記録として残るのはほんのごくわずか。今の瞬間にも膨大な量の過去が消えていっている。
死人に口無しとはよく言われること。
検証者がいない過去の出来事など、どんな脚色も、あるいは事実でなかったことさえも、容易に史実に仕立て上げられます。

しかも当事者はもう死んでいるのだから、直接的に迷惑をかける相手はいない訳で、言っている方も良心の呵責を感じることはありません。
そのため最初は多少の脚色だったのが、やがて完全な嘘になり、そのスケールもどんどんエスカレートしていきます。

私の子供の頃は、三世代同居も多く、祖父や祖母が実際に出征し、あるいは内地で戦火にあい、父母世代も出征はしなくても勤労動員に駆り出されていたりしましたから、一次証言がそこらじゅうに溢れていました。

ラディカルな言い方で申し訳ないですが、その頃は何も言わなかったのに、彼らが死んで誰も検証ができなくなった今になって、あたかも戦争秘話のようにしたり顔で話し始める連中は、ほとんど全員嘘つきと考えて、ほぼ間違いないと私は思っています。
歴史小説も同じ危険をはらんでいます。
特に司馬遼太郎。大好きな作家ですが、司馬史観と言われるくらい、まるで事実かのように書かれる。
こちらはあくまでも歴史小説です。事実と脚色を行ったり来たりしながら作ります。
検証の大事さ、同意です。東京裁判でウェブというオーストラリア人裁判長が「日本は侵略国家だ」と言ったことを受け、朝日新聞や読売新聞は確かめもしないで、日本を侵略国家ということにしてしまいました。朝日新聞は、今でもウェブの言葉について一切の検証なしに「日本は侵略国家だった」として社説を書き続けています。

人々はそうとも知らずに新聞を読み、テレビを見て、「そうか日本は侵略国家だったのか」と思いこんでしまいます。

有名な話ですが、中国にある日本軍の蛮行を伝える記念館に飾ってある「集団強姦そして虐殺」の証拠写真は、朝日新聞社の「アサヒグラフ」が掲載した写真で、匪賊や殺人集団の八路軍から「中国人女性らを守る日本軍兵士」というキャプションがついていました。拉致され、これから強姦される女性たちが笑顔で写真に納まる?なぜ某記念館の証拠を検証しないんですか?どうかしています、日本のメディアは。
とくに戦争に関しては、記述者の恣意的な解釈によって、捻じ曲げられて伝えられることが多い。
こうした歴史の報道は、史実だけを残すべきであり、記者は自分の主張の場としてはならない。
そうした当たり前のことができていないのが、日本のマスコミ。
父が存命中に、戦争のことをよく聞いておいて良かった。
80年代のころも、徐々に歴史上のことになり、本も絶版になるので、今のうちによく検証しないといけない。
また、公式文書だけが事実ではないことは、井沢氏のいう通り。
天皇実録はいい本。
ジャーナリストのプロピッカーのコメントがないのは何故ですか?
【歴史】オーラル・ヒストリーの難しさを痛感させられる記事。人間であるから記憶違いというものは当然存在するわけだが、歴史家やジャーナリストが「経験談」を「歴史」として書き記す時にはその他の歴史的事実や資料と十分に比較をする必要がある。今回の場合は千葉日報が十分な裏づけ調査を行わなかった点が問題。

大木氏の「新聞など報道機関が掲載した記事に対しては、それが裏付けのないものであったとしても、読者の側は、記者、校閲、デスクを通って掲載された、信頼できる情報として判断する。ひょっとすると、100〜200年経って、それが史実になってしまうかもしれない。歴史に対する責任を感じてほしい」という主張はもっともなのだけど、情報の読み手である我々読者も過度に信頼しすぎない必要がある。
まあ歴史なんてそんなもんやん