【池田貴広】発想転換で世界への道を開拓。BMX界の独創者へ

2016/6/9
BMXに出会うまでは毎日、池田貴広はゲームに没頭していた。そのゲーマー気質は、意外なことにBMXライダーとしてもプラスになった。
公園で技を教えてくれる先輩ライダーの存在は大きかったが、14歳の中学生が電車賃を払って千葉の繁華街に通うのは難しい。先輩ライダーと一緒に練習できるのは月に1回程度で、基本的には教わったことを覚えて持ち帰り、それを繰り返し練習する日々が続いた。
池田の地元にはBMXを持っている人も関心がある人もおらず、孤独な練習だったが、ゲームをするのもいつも一人だったから、気にはならなかった。
「僕は、ポケモンとかドラクエのようなコツコツとレベルを上げていくRPGが好きなのですが、BMXの練習はRPGと同じでした。ゲームでは敵を倒すためにトレーニングをして、レベルを上げる。BMXでは転びながらひたすら技を練習して、ちょっとずつ上達していく」
「なにか1つの技に成功したときは、『よっしゃ、レベルアップ!』みたいな(笑)。一人で黙々と練習するのが好きだから、BMXが肌に合ったのかもしれないですね」

趣味が「本気」に変わった日

技を一つ覚えるごとにBMXの楽しさに目覚めていった池田は、週に4、5日地元の公園に出向き、2、3時間の練習をして中学生時代をすごした。
はたからみれば相当な練習量だが、池田にとっては手にするものがゲームのコントローラーからBMXのハンドルに変わっただけ。あくまで趣味のレベルで、中学生時代は「そこまで本気じゃなかった」。
その意識が根底からガラリと変わったのは、高校1年生の冬だった。
その年、品川のステラボールで開催された世界大会を見に行った池田は、BMX界のスター選手の一人、アメリカ人のマットウィルヘルムのパフォーマンスに目が釘付けになった。
アメリカを中心に多数のショーにも出演しているマット・ウィルヘルムのプログラムは、観客を熱狂させるために組まれたエンターテインメントだった。
「この世界大会では優勝を逃したけど、お客さんのハートをガッツリつかんでいた。僕も彼に魅了されてファンになりました」
初めて世界トップクラスのパフォーマンスをライブで見た池田の胸の内には、まるで温泉でも掘り当てたかのように、「僕もいつか、あのステージに立ちたい」という気持ちがドドっと沸き上がった。
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この日から、生活が一変した。朝、夕、夜と3部練習をするようになったのだ。
平日は、学校に行く前の5時半から7時半までの2時間、学校が終わった後は夕飯の時間が来るまでの2、3時間、食後も2、3時間、合計で1日に6、7時間を練習に投じた。
さらに土日は、朝から晩まで公園ですごした。100回転んでも、1000回転んでも、また立ち上がってBMXのハンドルを握った。

受験にも生きたBMXへの思い

他のスポーツと同じように、BMXの上達速度も練習量に比例する。池田はメキメキと腕を上げ、階段を駆け上がっていった。
BMXのフラットランド全日本選手権は、アマチュアクラスの中にノービス(初心者)とエキスパートの2部門があり、さらにその上に二十数名しか所属できないプロというカテゴリがある。
池田は高校3年生の秋にエキスパート部門の年間王者になり、プロ部門に昇格した。
日本のフラットランドはレベルが高く、世界大会優勝者もいる。トップライダーが集うプロ部門に、キャリア3年半の18歳が名を連ねるのは異例のことだった。
BMXへのストイックな気持ちは、受験にも生きた。日本には高校卒業後にプロとして独り立ちできる環境はないから、池田は練習時間を確保できる大学への進学を目指した。
とはいえ、学校の授業以外の時間をすべてBMXに費やしたいという気持ちに変わりはない。そこで、受験勉強に時間を取られるのを避けるために「指定校推薦をもらえばいい」と、学校の試験勉強に猛烈に取り組んだ。
結果は、狙い通りの指定校推薦で東洋大学法学部に合格。池田は「思う存分BMXの練習をしたいからというモチベーションで勉強もはかどったのは良かった」と振り返る。

挫折からつかんだ奇手

大学に入学して迎えたプロクラスの1年目。池田は、打ちのめされていた。
プロクラスは年間に何度か大会があるのだが、すべて予選落ち。世界レベルのライダーがひしめくプロクラスで、池田はひよっこも同然だった。
このままでは、勝てない。初めて壁にぶち当たった池田は、チャレンジャーだからこそできる大胆な策を思い立つ。
──プロクラスのライダーはみんな、10年以上のキャリアがある。BMXは練習量がものをいうスポーツだから、4年しかキャリアがない自分が普通に正攻法でやっていたら、うまい人の劣化版に過ぎない。
でもBMXは、難易度以外にもオリジナリティ、独創性が評価されるスポーツ。オリジナルの技、スタイルを築き上げていけば勝負できる──。
たどりついた答えは、“縛りプレー”だった。
「普通の選手はいろいろな技をバランスよく入れてパフォーマンスを構成するんですけど、僕は試合でやる技をスピンだけに絞ったんです。マットウィルヘルムはスピンがめちゃくちゃうまいから、それに憧れて僕もずっと練習していて、得意技になっていました」
「その当時、スピンしかやらない人なんていなかったから、ゲームでいうなら縛りプレーで、スピンだけでやってみたら人の目にもとまるし面白いんじゃないかと思いました」
この奇手を思いついてから、池田はスピンだけを練習した。たくさんある技を満遍なく練習するのではなく、スピンだけを極めようと腹をくくった。

独創性で世界から喝采

高校時代、池田はテレビでフィギュアスケートを見て新しい技を思いついていた。
フィギュアのジャンプは、かがんだ状態から身体を回転させて一気に伸びあがる。この動きをスピンに取り入れたらどうだろうか。
この発想から生まれたのが、前輪を上げた状態でスピンをし、その前輪の上に立ち上がるオリジナル技「イケスピン」だ。
これは世界で誰も見せたことのない新技だったが、問題は難易度が高すぎるためなかなか成功しないことだった。
しかしスピンだけを練習するようになって、イケスピンの成功率も上がり、試合で使えるようになっていった。
スピンだけで構成した池田の独特のパフォーマンスは、世界の舞台で高い評価を得る。日本の大会では一度も予選突破できなかったにもかかわらず、大学1年生の冬、代々木第二体育館で開催された世界大会でベスト16に進出。
さらに、この大会でのパフォーマンスを認められて、翌年、スペインで開催された国際大会に招待されたのだ。

国際大会優勝&ギネス記録樹立

2010年5月、アルハンブラ宮殿で開催された大会「RedBull Flamenco Flatland」。大会直後に20歳の誕生日を迎えた池田は、自らの手で最高のプレゼントを勝ち取る。
初めて臨んだ海外での大会で、イケスピンを中心とした高速スピン技をことごとく成功させて、初優勝を飾ったのだ。
ここから池田の人生は加速する。
同じ年、スペインのバルセロナで開催されたBMXの世界選手権で準優勝。
2011年には、全日本選手権とフランスで開催された国際大会を制する。そして、前編の冒頭に記したようにエクストリームスポーツの世界大会「FISE WORLD」(フランス)ではシルク・ドゥ・ソレイユのスカウトに声をかけられて、「アーティストバンク」に名を連ねた。
極めつきは、ギネス世界記録の樹立。
池田の活躍に目を付けた日本テレビから声がかかり、カナダの選手が持つ「ジャレイタースピン」という技で1分間に39周というギネス記録に挑んだ。
池田はテレビカメラの前という重圧をものともせず、1分間に59周という圧倒的な回転数で、ギネス世界記録を更新する。
若きスピン王者・池田貴広は、BMXの世界に旋風を巻き起こしていた。(文中敬称略)
(バナー写真: © CYCLENT inc. 文中写真:© Motoyoshi Yamanaka)