世界に通じる日本の技術(前編)
技術と情熱で居場所をつくる。日本人スポーツトレーナーの挑戦
2016/4/26
アスリートのパフォーマンスを最大限に発揮させることに、心血を注ぐスポーツトレーナーという職業がある。選手のコンディショニング管理やリハビリテーションを担当し、試合で負傷があれば真っ先にグラウンドに飛び込み応急処置を施すなど、スポーツシーンの黒子的存在だ。
華やかな舞台を影から支えるスポーツトレーナーの仕事について、日本人で初めてサッカーのスペイン1部リーグのクラブに従事した山田晃広に、UEFAチャンピオンズリーグ放映権とスポンサー権利セールスのアジア・パシフィック&中東・北アフリカ地区統括責任者を務める岡部恭英が話を聞いた。(全2回)
25歳でバルセロナに渡る
岡部:山田さんはバルセロナやレアル・マドリードが戦うスペイン1部リーグのクラブに、トレーナーとして在籍した経験を持っています。海外クラブで働くようになった経緯を教えてください。
山田:僕自身、高校時代までサッカーをやっていて、卒業後にスポーツマッサージの治療院に就職しました。無我夢中で働き、20歳だった3年目から早稲田大学ア式蹴球部、その後にJリーグのヴァンフォーレ甲府のトレーナーとして、サッカー選手たちをサポートし始めました。
当時の甲府にはブラジル人選手やパラグアイ人のコーチがいて、彼らと接するうちに、日本と南米ではサッカーが違うと感じ始めました。それが、海外のサッカーに興味を持ったきっかけです。
岡部:日本のサッカーと、どこが違うのか考えていたわけですか。
山田:そうですね。自分ではずっと解決できずにモヤモヤしていた中で、車いすのサッカー指導者である羽中田昌さんが書かれた『グラシアス』という本に出会いました。
岡部:羽中田さんは、スペインのバルセロナに住まれていましたね。
山田:本を読んでみると、バルセロナのサッカーや町、歴史のことが書かれていて、「バルセロナには日本と違う世界がある」と感じました。それで365日サッカー漬けの生活をしようと、25歳のときにスペインに渡りました。
岡部:思い切った決断だったと思います。
山田:当時は結婚したばかりで、言葉も話せずに貯金も100万円しかありませんでした。しかし、成功するかどうかなんてわかりませんが、リスクといえばその100万円がなくなるだけ。そうなればまた頑張ればいいだけですから、とにかくバルセロナに行くしかないなと。
無給で働き、認めさせる
岡部:なるほど。いきなり現地のクラブで、トレーナーとして雇ってもらえたのでしょうか。
山田:当時はバルセロナに羽中田さんをはじめ、日本人サッカー関係者も住んでいる頃でした。徐々に人脈もでき始めると、スペインに渡って4カ月目くらいに、当時3部に所属していたオスピタルレットのユースチームを指導する監督を紹介してもらえました。そこで、「おカネは払わなくていいから、とにかく僕を使ってくれ」と頼み込みましたね。
岡部:初めは無給だったということですか。
山田:まだスペイン語も話せない時期で、最初からおカネをもらおうとは考えていませんでした。ただ、そのユースチームはテーピングもなければ、トレーナーキットもないという状態。一方で、僕としてはチームに携わっている以上はプロの仕事をしたいという思いがあり、自費で道具をそろえていきました。
やはりおカネがないからといって、選手にトレーナーとしてのスキルを与えられないのでは意味がありません。選手は高校生かもしれませんが、僕は彼らをプロとして扱い勝たせてあげたかったので、選手にとって良い環境を整えていきました。
岡部:自費はいつまで続いたのでしょうか。
山田:数カ月すると、クラブも「なぜ自分のおカネでやっているのか」と言ってくれ、高校生の選手たちも1人500円くらいを出し合い、トレーナーの活動費を捻出してくれました。
岡部:山田さんの仕事ぶりを、クラブや選手が認めたということですね。
山田:当時はスペイン語を全然話せませんでしたから、けがの説明をするときに分厚い辞書で単語を調べたり、絵を描いたりして監督に伝えていました。ただ、ユースのトレーナーを1年間続けると、今度は監督の推薦もあって2年目からトップチームのトレーナーに昇格することになります。
トップでもトレーナーとして3年間働いていましたが、ビザの更新などもあり、日本に帰国することになりました。
ラシン入りのきっかけ
岡部:一度、日本に戻られていたのですか。
山田:そうですね。日本では同級生と治療院の起業をしたりしていたのですが、当時スペインの1部にいたラシン・サンタンデールから、「1カ月のトレーニングキャンプがあるから、ヤマも良かったら来てみないか」という連絡が入ったのです。
岡部:なぜ1部のクラブから連絡があったのでしょうか。
山田:僕がオスピタルレットにいたときのヘッドコーチが、ラシンに移り声をかけてくれたということです。飛行機代などは自費でしたが、1部リーグの選手をサポートできるチャンスはおカネでは買えませんから、治療院は同級生に任せてトレーニングキャンプに参加しました。
岡部:その頃には、すでにスペイン語の問題もなくなっていたと思います。
山田:言葉も話せるようになっていましたし、スペインサッカーのノウハウもわかっていました。それに先輩トレーナーやドクターがいて、僕は研修生のような扱いで一番下っ端ではありましたが、最初の練習でチームに自分が必要とされることはわかりましたね。
日本人の気配りが異国で通じる
岡部:なぜそう感じたのか、詳しく教えてもらえますか。
山田:実は特別なことをしたわけではありません。誰よりも早くトレーナールームに行って掃除をしたり、先輩トレーナーが必要な道具を先に準備しておくような、日本で普通とされることをしただけです。
スペイン人のトレーナーがやることは、自分の仕事だけ。用具係の仕事を手伝ったり、荷物を運ぶようなことはしません。要はほかのトレーナーがやらないことをやっただけです。
それとほかのトレーナーは選手に練習メニューを伝えるだけの場合が多いですが、僕は可能な限り選手と同じトレーニングをこなしていました。
ボールを扱った練習は技術に差が出ますが、走り込みや筋トレを一緒にこなせば、コミュニケーションも取れて一体感も出ますから、選手との距離が一気に近づくわけです。
岡部:練習での苦しい感覚を共有できますからね。
山田:僕自身は1カ月のキャンプが終われば日本に帰ろうと思っていましたが、選手たちが会議を開いて、「ヤマは絶対にトップチームに残すべきだ」という意見をまとめてくれました。それが会長やゼネラルマネージャーに伝わり、一気にトレーナーとして契約を結ぶことになりました。
岡部:選手が快適にプレーできる環境を自らサポートするような、日本人的な気配りがスペインでも通じたということですね。
山田:本質としては、ユースチームを教えていたときと同じだと思います。「おカネや道具がないから仕方がない」と考えるのではなく、目の前にある状況の中で、いかに工夫して自分にできることを最大限にやれるかということです。
日本の技術は世界でもダントツ
岡部:選手のレベルでは、スペインと日本で差があるのが現実です。トレーナーとしての技術についても聞かせてください。
山田:トレーナーとしての技術ならば、日本はダントツだと思います。スペインだけでなく、フランスやイングランド、ブラジルのトレーナーも見てきましたが、日本の技術が通用しない国はないでしょうね。
岡部:日本と他国のトレーナーでは、どういう点が違うのでしょうか。
山田:日本人はきめ細かく、テーピングの切り方やストレッチの技術でも、ものすごいディテールにこだわります。マッサージでも、ヨーロッパでは痛みのあるところを直接施術することが多いですが、選手が膝に痛みを感じても原因は背中や肩にあったりもします。
僕も選手がけがをしたシーンを映像で何度も見返して、痛みの原因を探るようなアプローチをしますが、それも日本では普通のことです。ところが、スペインでは意外にやっていないトレーナーが多かったですね。
岡部:日本でプロのトレーナーとして活動できていれば、スペインでも通用するということですね。
山田:僕がなぜスペインのクラブに携われたかといえば、トレーナーとしてのしっかりした技術があったからだと思います。初めは言葉が話せないとしても、何よりも技術とチャレンジする行動力は絶対に必要になります。
岡部:その2つがベースになるわけですね。
かつての選手との再会
山田:実際に選手もそういう点をよく見ています。僕がオスピタルレットのトレーナーとして関わった選手で、現在はバルセロナのコーチをしている人物がいます。昨年12月に日本で行われたクラブW杯でバルセロナが来日したとき、その彼と久しぶりに食事をすることがありました。
監督のルイス・エンリケ以外のスタッフが全員集まって、すき焼きを食べたのですが、そのときに彼が、「ヤマはいつも辞書を持って、監督に説明していたよね」と言ってくれたのです。当時の僕はそれしか手段がなかっただけですが、言葉ができなくても一生懸命に伝えようとする姿を選手は見ていてくれていたと思うと、非常にうれしかったです。
岡部:山田さんの努力を、しっかりと見ていたわけですか。
山田:食事をしながらサラッと言われたことでしたが、10年以上前のことなのに覚えてくれていたことに感激してしまい、無我夢中にやっていて本当に良かったと思いましたね。
(構成:小谷紘友、写真:本人提供、小谷紘友)
*明日掲載の「自分を殺して相手の感情を読む。スポーツトレーナーの対話術」に続きます。