【前園真聖】“中途半端なプライド”が人生を狂わせた

2016/4/9
「私の始末書」第2回に登場するのは、サッカー元日本代表の前園真聖だ。
前園は、U-23日本代表のキャプテンとして、メキシコ五輪以来28年ぶりとなるアトランタ五輪出場に導いたほか、本大会でもブラジル代表を相手に1対0で破った「マイアミの奇跡」に貢献。アトランタ世代の人気選手としてCMなどのメディア出演もするなど、高い人気を誇った。
2005年に現役を引退すると、テレビ番組でサッカー解説を行うほか、子ども向けのサッカースクールを立ち上げるなど、多岐にわたる活躍をしていた。
しかし、2013年10月13日、前園は泥酔状態となりタクシー運転手に対して暴行を加えた疑いで現行犯逮捕(その後、示談が成立し不起訴)。活動を自粛することになった。
その後、再び表舞台に立った前園は、サッカーの仕事だけでなくバラエティ番組で「いじられキャラ」として注目を集めるなど、事件前にもまして活動の幅を広げている。
そうした中、前園は自身について記した『 第二の人生』(幻冬舎)を出版。前園が語るこれまでの失敗と、これからに対する思いとは。

つくりあげたキャラにとらわれた

──改めて、事件について振り返っていただけますか。
酔っぱらっていたとはいえ事件を起こしたのは、本当に最低だったと思います。僕は、あの事件を起こしてから4カ月ほど謹慎しました。
そこで反省し、自分を見つめ直す中で、復帰したらカッコつけるのではなく、「自分の素を見せて仕事に取り組もう」と決意しました。
そんなときに僕のこれまでとこれからについてまとめてみませんかと、出版社の方から声をかけていただいたんです。
でも、最初は「まだ早い」という気持ちもありました。僕のことを応援してくださる方もいますけれど、もちろんそうじゃない方もいますので「少し考えさせてください」と伝えたんです。
──そこから、気持ちにどんな変化があったのでしょうか。
出版社や事務所の方と話し合ううちに、これから“素の自分”で生きると決めたからこそ、僕がどういう人間なのか、事件のこと、そこから何を考えたのかまで、ストレートに知ってもらうことが大切だと思ったんです。
本の出版は、それを皆さんに率直にお話しする機会だと考えるようになりました。
被害者の運転手の方には事件直後に直接謝罪したのはもちろんですが、2015年にも一方的ではありますけれど、手紙を送らせていただきました。
僕が、今回の事件をきっかけにいろんなテレビに出演するようになりましたし、バラエティ番組ではどうしてもお酒の話題も出ます。
その点は、やっぱり引っかかっていたんです。
そこで改めて謝罪をして、「自分を見つめ直す機会にもなりましたし、これからも応援してもらえるように頑張ります」とお伝えしました。
──先ほど“自分の素”という言葉が出てきましたが、これまでは自分の気持ちを鎧で固めるようなところがあったのでしょうか。
そうですね。サッカー選手の現役時代は、相手に弱みを見せたくなかったですし、プレーに対してもストイックでいたかったんです。そこでつくりあげたのが、“強面”のキャラクターでした。自分は本来強気なタイプではないので、あくまで見かけだけでしかありません。
それは、サッカー選手として戦うためには必要だったと思いますが、引退後もそのキャラ設定にとらわれている自分がいたんです。
今回の事件につながったお酒に関してもそうです。そんなキャラクターだから、現役時代から事件の前までは、飲み会で盛り上がっているときに「烏龍茶ではカッコつかない」と思ってしまう自分がいました。
もともと、お酒に強いタイプではなく、少しずつ飲めるようになった人間なのに、虚勢を張ることもありました。
事件当日は、本当に何も覚えていないほど酔っぱらってしまいました。こんな経験は初めてでした。でも、それは海外出張で疲労がたまっていたにもかかわらず、「自分は大丈夫だ」とお酒を飲み過ぎた結果なんだと思います。
──事件後の記者会見に関するエピソードもつづられています。
僕もテレビなどで政治家や会社の経営者が謝罪している姿を見ることはありましたが、まさか自分がそうなるとは思ってもいませんでした。
事務所のスタッフをはじめとした皆さんが、迅速に会見をセッティングしてくれる中で、とにかく「自分の言葉で伝えたい」と考えました。そして、「今回の事件でこんな影響があるだろうから、こう言おう」という逆算もしませんでした。
皆さんもいろんな謝罪会見を見ていて、「台本通りだな」「自分の言葉じゃないな」と感じることも多いと思います。
そこで、用意された言葉ではなく、自分自身の気持ちを素直に伝えることだけを考えました。
だから、会見では泥酔を“どろよい”と言ってしまう始末だったんですけれど(笑)。
前園真聖(まえぞの・まさきよ)
1973年鹿児島県生まれ。92年、鹿児島実業高校からJリーグ・横浜フリューゲルスに入団。96年、U‐23日本代表主将としてアトランタオリンピックに出場、ブラジルを破る「マイアミの奇跡」などを演出。その後、ヴェルディ川崎、サントスFC、仁川ユナイテッドFCなど、国内外のチームを渡り歩き、2005年現役引退を表明。現在はサッカー解説やメディア出演のほか、「ZONOサッカースクール」を主催し、子どもたちへのサッカーの普及活動などで活躍。

事件後に気づいたこと

──謹慎中、最初に会おうと誘ってくれたのは中田英寿さんだったそうですね。
僕はずっと外に出たくなかったですし、お会いするとその人に迷惑がかかってしまうという気持ちもありました。
そんな僕に声をかけてくれたのはうれしかったですし、“らしいな”と思いました。僕の気持ちを読んでいたんでしょう。事件後、年が明けた頃に、普段通りに誘ってくれたんです。
──お二人の会話について教えてください。
ヒデから「もうお酒もいいんじゃない?」っていじられました。
また、「本当に殴ったの?」と聞かれたので「全然覚えていないんだよ」と答えました。すると、「しょうがねえな。やったことは仕方がないんだから、これからゾノ頑張りなよ」と言ってくれました。
──今回、助けてくれた方はもちろんですが、離れてしまった方もいたのではないでしょうか。
はい。でも、それは現役時代に経験していたことでもあります。自分が活躍していたり、調子が良かったりするときだけ近づいてくる人はいました。
そういうときは、メディアも持ち上げますし。
でも、僕が本当に苦しいときに支えてくれるのは限られた人たちです。今回の件は、僕のせいで各方面にご迷惑をかけたのに、それでも支えてくれた人がいたことは有難かったです。
──仕事への向き合い方に、大きな変化が生まれたと書かれています。
僕らの仕事は必要とされないと、どこにも出ることができません。当たり前のことなんですけれど、事件後にようやく気づけたんです。
僕は、現役引退してからも当たり前のように仕事があって、サッカーにも変わらず携われていました。そこに甘えていたんだと思います。
事件前も、頂いた仕事をきちんとしていたと思うんですけれど、本当の意味でのありがたみは感じていなかったかもしれません。
そういう態度は、自分ではわからなくても、第三者にはわかると思います。
今日のように、初めての現場に呼ばれることも当然だと感じていた部分がありました。時には収録現場に遅刻することもありましたが、そんな意識があったからかもしれません。

中途半端なプライドを抱え続けた

──2005年に現役引退して、事件を起こしたのは2013年です。それほどまでに切り替えができず、引きずるものだろうかと思ったのですが。
うーん……人にもよると思うんですけれど、僕はそれがうまくいきませんでした。
切り替えてはいるんでしょうけれど、“中途半端なプライド”が邪魔をしていました。
僕がサッカー選手を引退してからも、マイアミの奇跡のインパクトが残っていて、過去の栄光について聞かれることも多くありました。
そのせいで、現役のままを保っているというか、自分の立ち位置や振る舞い方が難しいところがあって……。
でも、これは本当に複雑な気持ちなんです。
僕が公式戦でデビューしたのは1993年。1996年にマイアミの奇跡があり、引退したのは2005年。あの試合以降の方がサッカー人生は長かった。
だから、マイアミの奇跡について聞かれるのが嫌な時期もあったんです。実際、あの試合は勝ったというよりも“勝ってしまった試合”だったんです。もちろんみんなの力がなければ勝てませんでしたけれど、相手の力のほうがはるかに上でしたし、自慢する気持ちはなかったんです。
だから、なおさらそれが自分に付いてくることに抵抗があって、いつしか重荷になっていました。
僕は、その後ワールドカップにも出場していないですし、成績も振るわなかったので、実績が伴っている選手じゃないと思うんです。
そう思いながらも、Jリーグがスタートしてからの創成期を支えた自負や、海外に挑戦した経験もあるので「マイアミの奇跡のキャプテンだけじゃない!」というプライドもどこかにあって、バランスが取れなかった。
中途半端な自分を認められなかった。
それがなくなったのも、この事件の後だったんです。
後編へつづく。
(写真:大隅智洋)