マーケティングの新潮流(後編)
1世紀に迫る五輪スポンサーの歴史。マーケティングの進化をたどる
2016/3/30
88年前、世界恐慌の影が忍び寄るアメリカから、オリンピックに出場する同国代表団とともに、1000ケースの飲料が海を渡った。
太平洋を横断してたどりついた先は、オリンピック開催に沸くオランダ・アムステルダム。陸上の織田幹雄と競泳の鶴田義行が日本人初の金メダリストに輝いた大会で、コカ・コーラ社とオリンピックのパートナーシップは始まった。
1世紀に迫るコカ・コーラ社のスポーツマーケティングの歴史を、日本コカ・コーラでマーケティングアセッツ部長を務める渡邉和史氏が語った。
前編:新たな流れを生む「飲料メーカー×スポーツ」のマーケティング
五輪史上初のスポンサーが誕生
──コカ・コーラ社は、スポーツの発展に大きく貢献してきたと思います。スポーツにおけるマーケティングのきっかけについて教えてください。
渡邉:初めは、1928年のアムステルダムオリンピックになりますね。「コカ・コーラ」は1886年にアトランタで誕生してから、徐々にアメリカ本土で売り上げを伸ばしていき、やがて海を渡った歴史があります。
そこで、海外でも受け入れられることを考えたときにオリンピックと出会い、大会を活用してブランドを世界中に広げていくことがファーストステップでした。
──1928年から、清涼飲料水とスポーツをつなげていたということですね。当時はマーケティング戦略をどのように考えていたのでしょうか。
戦略は2つあり、1つは選手の喉を潤すためでした。選手たちは競技中に当然喉が渇きますから、選手にベストパフォーマンスを発揮してもらえるように、われわれがしっかりと水分補給の機会を設けたということです。
もう1つが、国際オリンピック委員会(IOC)との関わりになります。現在は204の国と地域がIOCに加盟していますが、当時のオリンピックには約50カ国ほどしか参加していませんでした。
参加国は今の約4分の1でしたが、ブランドの存在を広めるにはぴったりの大会でしたから、そこでマーケティングを始めたわけです。それらの流れもあり、オリンピックのスポンサー一覧では基本的にABC順に企業が並んでいますが、コカ・コーラ社は1928年から続く最古のパートナーということで、先頭に掲載されています。
1964年東京五輪での取り組み
──当時からスポーツマーケティングを続けているというのは、先見の明があったということですね。
1980年代にいくつかの日本企業が、プレミアリーグに所属するサッカークラブのスポンサーになったことがありましたが、その発想と一緒といえます。
日本企業がヨーロッパでビジネスを拡大するためには、まずブランド認知が必要です。そのためには、ヨーロッパで人気のあるサッカークラブとの契約が効果的でした。われわれとしては、その60年前に同じことをアメリカのアトランタで考えていて、IOCと結びついたということです。
──それで史上初の大会スポンサーが生まれたわけですか。日本におけるスポーツとの関わりについても教えてください。
セルジオ越後さんが全国を巡回して子どもたちに指導した「さわやかサッカー教室」や、全日本少年サッカー大会の特別協賛が有名なところですね。今でも「コカ・コーラといえば、セルジオ越後さん」という方が非常に多いですから、セルジオさんには本当にお世話になりました(笑)。
──サッカーへの貢献度が大きいようです。
さらにさかのぼれば、実は1964年の東京オリンピックでも、海外からの旅行者用のガイドブックや外国人旅行者をもてなすための英会話集を作成して、街中で配布したことがありました。それらもスポーツを活用したコミュニケーションの一つだと思います。
──1964年の東京オリンピックにも関わられていたのですか。
オリンピックとは1928年から、グローバル契約が続いていますからね。サッカーのW杯とは、1978年のアルゼンチン大会からオフィシャルパートナーになっています。
「オリンピックムーブス」とは
──2020年には再び東京オリンピックが開催されますが、新たな取り組みも行われているのでしょうか。
まずは今年のリオデジャネイロオリンピックがありますから、リオ後の秋口くらいから本格化していく流れになります。一方で、すでに「オリンピックムーブス」というプログラムは世界中で実施されています。
──取り組み内容を具体的に教えてください。
2003年にオランダで始まった、若者の運動不足解消を目的としたIOCとの共同プログラムになります。日本では、中学校で部活に入っている子どもたちと入っていない子どもたちで、運動時間が二極化しています。それは日本だけでなく、実はオランダでも中高生の運動する機会が少なくなっている問題がありました。
そこに目をつけたのがオランダのコカ・コーラ社で、悩みを抱えていたオランダ側とIOCのパートナーとして話し合いを持ちました。結果的に、年間を通じて地方で各競技の予選を行い、年に1度アムステルダムにあるオリンピックスタジアムで、スポーツを楽しむ全国大会を開催したことが始まりになります。
──世界的な試みということですね。
現在は年間17万人の中高生が参加しているプログラムで、東京オリンピックを控える日本でも昨年から実施し始めました。ただ、オランダと同じことをやるのではなく、日本では運動時間が二極化していることも考え、僕らは“ゆるスポーツ”に注目しました。
「バブルサッカー」「イモムシラグビー」「ベビーバスケットボール」「スピードリフティング」「100cm走」と、オリンピックからヒントを得た競技を、学校の授業としてみんなで仲良く楽しく体験することで、運動に対する劣等感などを取り払ってしまおうと考えたのです。
──実際に開催してみた反応はいかがでしたか。
アメリカ本社やIOCにも企画を通したところ、最初は理解しにくかったようです。ただ、「日本ならでは」という大きな後押しもあり、原発事故の関係で運動時間が一番少ない福島県相馬郡にある、新地町立尚英中学校で昨年11月に初めて実施しました。
体を動かすことはもちろんですが、2020年を見据えてオリンピックの精神を学ぶ教育的なプログラムでもあり、授業としても学校側にも喜んでもらえています。僕らとしても、オリンピックの素晴らしさをわかってもらいたいですし、運動をする機会を“ゆるスポーツ”を通じて提供することで、新たな発見も生まれるかもしれませんからね。
東京五輪後における日本の理想像
──「オリンピックムーブス」は2021年以降も続けていく予定でしょうか。
2021年以降も続いていなければ意味がありませんから、今のプランも2021年にあるべき姿から逆算してつくっています。「オリンピックムーブス」は2021年の理想を描いていて、現在もそこにたどりつくための取り組みを行っているということです。
個人的な思いとしては、オリンピックが日本に来るというこの4年間で、なるべく多くの子どもたちに「オリンピックムーブス」でスポーツの素晴らしさを体験してもらい、2020年を迎えてほしいですね。オリンピックによって、さまざまな方々と接する機会は増えていきます。将来的には、自分たちが受け入れるのではなく、自ら外に行けるような人材が一人でも多くなればと考えています。
──人材が育っていくには最高の機会ですね。
そういう社会にシフトしていくことも、オリンピックを開催する意義の一つなのかなと思います。
──渡邉さんが描いている2021年について教えてもらえますか。
日本超スポーツ王国といえるような、誰もがギラギラして運動できていれば最高にうれしいでしょうね。オリンピックをきっかけにみんなが外に目を向け、自ら海外に出ていって活躍するような、体育会系国際人が輩出されることを楽しみにしています。