楽天イーグルスの礎(第2回)
カギは「徹底した内製化」。プロ野球参入初年度に黒字を生み出す
2016/3/29
2004年に突如巻き起こったプロ野球再編問題は、東北楽天ゴールデンイーグルスという新球団を生み出した。同年11月に新規参入が承認されると、2005年シーズンから参戦する急ピッチぶりだったが、参入初年度からパ・リーグ6球団で唯一の黒字を計上。参戦9年目の2013年シーズンには、初の日本一も達成した。
半世紀ぶりに生まれた新球団は、いかにして奇跡の成長を遂げたのか──。発足時の楽天イーグルスにおける取締役事業本部長であり、現在はヤフー執行役員でショッピングカンパニー長を務める小澤隆生氏が、球団発足から黒字経営に至る舞台裏を明かした。(全4回)
第1回:楽天イーグルス誕生の陰にあった「要素分解」と「打ち出し角度」
日米での一番の差はスタジアム
岡部:球団立ち上げの際、スタジアムビジネスは何から手をつけたのでしょうか。
小澤:宮城球場(現楽天Koboスタジアム宮城)を9割ほど改修しましたね。それまでのプロ野球界では、球団が試合のたびにスタジアムを借りたり、レベニューシェアというかたちだったりがほとんどで、スタジアムにおける飲食と広告の売り上げがないような状態。日米各球団の損益計算書を見ても、日本とアメリカの一番の差はその部分でした。
それで「これはおかしいだろう」ということで、スタジアムを年間で借り切る方法を考えました。僕らの投資で改修して、所有者の宮城県に寄贈することで、スタジアムの使用権を得たわけです。
岡部:それによって、スタジアムビジネスを自分たちで運営できたわけですね。ちなみに、スタジアムが使用されるのは、楽天の試合があるときだけだったのでしょうか。
小澤:甲子園の予選や草野球チーム同士の試合に対しても、時間貸しをやっていました。甲子園予選時などにおける飲食の売り上げも球団に入りますが、その代わりにグラウンドの整備といった管理も、われわれの費用でやらないといけないということです。
メニュー管理まで徹底した飲食
岡部:飲食にはどのように取り組みましたか。
小澤:仙台のおいしいものをすべて集めるということで、たとえば牛タンのお店などに出店してもらい店舗を充実させました。それとテナントビジネスのように、スタジアムとしての取り分は各店舗の売り上げと連動する仕組みでした。
売り上げの数%をテナント料として受け取る体系でしたから、店舗ごとのビジネスが成功しなければ、スタジアムとしての取り分も少なくなってしまいます。なので、各店舗の人気上位のメニューと下位のメニューを常に分析して、下位を入れ替えていました。
岡部:メニュー管理まで徹底していたわけですね。
小澤:当時は店舗やメニューの売り上げを見ながら改善できるように、フランチャイズ店でスーパーバイザーの経験があるスタッフを数人雇い、全体のコントロールをしていました。
岡部:ヨーロッパではサッカースタジアムによっては、しっかりとした食事を取れるレストラン設備もありますが、楽天の場合はいかがでしたか。
小澤:鷲の巣という意味の「イーグルスネスト」というスポーツラウンジを、一塁側に設置しました。スタジアムを左右非対称にして、通常は一塁側にあるホームの座席を三塁側にして席数を多くする一方、一塁側はビジターなので集客も少なくなるということで、大きなスポーツラウンジと居酒屋シートを設置したわけです。
ほかのスタジアムを見ると、どこも店舗に行列ができていましたから、とにかく並んでもらわないようにスタジアムの外にも屋台を常設しましたね。
アメリカナイズした観戦スタイル
岡部:三塁側をホームにした理由について教えてもらえますか。
小澤:いくつか理由があるのですが地理的な問題で、近くに病院があったため、どうすればお客さんの歓声が病院に届かないようにできるかといった配慮ですね。それに関連して、大きな方針としてトランペットでの応援も禁止にしました。
岡部:それはバットにボールが当たった音を、聞こえるようにするという意味でしょうか。
小澤:そういう意味もありました。ただ、当時は新しい野球の見方をどのようにつくりあげるかを考えていたので、アメリカナイズした観戦スタイルにしたかったということです。
業界初となるグッズの製造直販
岡部:グッズ販売はいかがでしたか。
小澤:グッズに関しては、業界初となる製造直販を取り入れました。通常は販売元から権利料を受け取るロイヤリティビジネスが主流ですが、子会社を設立して中国で商品を製造し、スタジアム内の店舗と仙台駅構内の直営店で販売したのです。
岡部:グッズのために会社までつくったわけですね。
小澤:子会社自体は、アイドルグループが所属している会社との合弁というかたちでした。アイドルのグッズ販売でノウハウがあるので、「一緒にやりましょう」と。
岡部:確かに経験がなければ、中国での商品製造は難しいと思います。そこまでさまざまなプロジェクトを抱えていたのならば、球団発足当時は時間もなかったのではないでしょうか。
小澤:一気に何十本ものプロジェクトを走らせていましたね。それでも、基本的に最後の意思決定は僕が下していたこともあって、かなりの短期間で中国側との交渉をまとめました。結果として、グッズ販売もかなりうまくいきましたよ。
岡部:販売場所はスタジアムと直営店だけでしたか。
小澤:売り上げのほとんどは、その2つとホームページ経由です。だからこそ製造直販をやるべきだと判断しました。他球団はグッズのロイヤリティこそありますが、売り上げに応じた収入はありません。しかし、僕たちはグッズの売り上げから原価を引いた利益を取りにいきたかったわけです。いわゆるSPAモデルですね。
グッズが3000種類あるとしたら、少なくても人気上位の200種類。特にメガホンとキャップ、ユニホームは、必ず自分たちで製造直販するべきだと考えていました。
岡部:そのアイデアはアメリカを視察した際に思いついたのでしょうか。
小澤:もともと、楽天が販売に関するビジネスをやっていることもあってそういう考えになりましたね。スタジアムの看板広告についても、自分たちで販売を行いました。広告代理店に買い切ってもらうかたちをとるべきか非常に悩みましたが、本社で広告事業に関わっていた人材に声をかけ、担当してもらいました。
各事業の優先度については、チケットと広告が2本柱。飲食やグッズ販売というスタジアム事業も、最終的にはチケット販売があってこそでしたから。
初年度でパ・リーグ唯一の黒字
岡部:チケットとスポンサーシップが重要だったわけですね。ちなみにテレビ放映権料はリーグから分配されていましたか。
小澤:放映権料も自分たちで販売していました。WOWOWやスカパー、宮城のローカルテレビ局との交渉のほかに、1年に2、3試合あった巨人戦はキー局と話し合っていました。しかし、そこまで大きな収入ではありませんでした。
岡部:それはサッカー界にも生かせそうです。日本は放映権料が伸びていない状況ですから、小澤さんの言うように、チケットとスポンサーシップが軸になるということですね。
それにしても、野球界の慣習に染まらずに新しいビジネスを持ち込んだと思いますが、周りの球団からの反応はいかがでしたか。
小澤:そこまで新しいわけではなかったと思います。スタジアムビジネスとグッズの製造販売くらいですから。それにプロ野球はフランチャイズビジネスのように、地域ごとのビジネスといえますから、ほかと違うことを始めたからといって基本的に迷惑はかからないです。
岡部:参入初年度は、パ・リーグで唯一黒字の球団になりました。その後は他球団も参考にしていったのではないでしょうか。
小澤:シーズン前に12球団の会議で運営方針は発表していましたが、実際にフタを開けて黒字になったときは、ほぼ全球団から「どうやったのか」と問い合わせを受けたことがありました。地域ごとのビジネスで他球団の運営を侵すことはないですから、僕らもすべての情報を出していました。
岡部:別に競争はしていないわけですからね。ただ、その後のパ・リーグの経営は大きく変わったと思います。
小澤:僕らの影響があったかはわかりませんが、球界全体がうまくいったら良いという思いがありました。今でもさまざまな球団から相談を受けますが、しっかりと答えています。
(構成:小谷紘友、写真:福田俊介)
*本連載は毎週火曜日に掲載予定です。