【中田浩二】海外移籍で「サッカーだけやればいい」という考えが変わった

2016/3/20
中田浩二は「黄金世代」の一人として、日本サッカー界に大きな足跡を残してきた。代表では、ワールドユース(現U-20W杯)での準優勝やシドニー五輪でのベスト8入り、日韓大会を含む2度のW杯出場を果たした。
クラブでも、鹿島アントラーズで数多くのタイトル獲得に貢献し、フランスとスイスへの海外移籍も経験した。2014年の現役引退後、鹿島のフロントでセカンドキャリアをスタートさせた中田が自身のサッカー人生を振り返った。

海外移籍によって考えが変わる

──中田さんは2014年の引退後、鹿島アントラーズのクラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O)に就任しました。スポンサーやサポーター、行政などといったステークホルダーとクラブをつなぐ役割を担われていますが、以前からフロント業務に興味はあったのでしょうか。
中田 もともとは現場志向で、現役時代から指導者ライセンスは取得していました。ただ、当時から、現在の上司である取締役事業部長を務める鈴木秀樹氏と会話する中で、フロント業の面白みは感じていましたね。
それに、鈴木氏は引退を決めたらすぐに、「こっちの世界に来てみないか」と声をかけてくれました。話をしているときから興味は湧いていましたし、実際に誘ってくれたこともあり、やってみようと思いました。
──中田さんは現役時代から、率先してスポンサーやファンに歩み寄っていたと聞きます。
皆さんを紹介していただくことで親しくなったということはありましたが、若いときからそうだったわけではありません。年齢を重ねるうちに、スポンサーの方々やサポーターの方々との接し方も変わっていきましたし、それには海外移籍の経験が大きかったですね。
Jリーグでプレーして日本代表に選ばれていたりすると、どうしても「サッカーだけをやっていればいい」と考えてしまうことがあります。しかし、移籍して海外で一人で生活したり、現地の日本人の方々に助けていただいたりしたことで、周囲との接し方も変化していきました。
──なるほど。
僕自身、海外に行って何が変わったかと聞かれれば、一人の人間として大きくなれたと答えます。
中田浩二(なかた・こうじ)
1979年生まれ。滋賀県出身。帝京高校を卒業後、鹿島アントラーズへ加入し、主にボランチやセンターバックとして活躍した。クラブ在籍中に5度のJリーグ年間王者をはじめ、数多くのタイトル獲得に貢献。日本代表としてW杯には2002年と2006年に2大会連続で出場。2004年に欧州移籍を果たし、マルセイユとバーゼルでプレー。2014年限りで引退し、現在は鹿島のC.R.O(クラブ・リレーションズ・オフィサー)を務めている。

日本に帰る選択肢はなかった

──中田さんは、フランスのマルセイユやスイスのバーゼルでプレーされました。
現地では一人で生活していましたから、苦労することもありました。サッカーでは試合に出られなかったら苦労したと見られますが、実際には試合以外のウエイトが大きい。時間はありましたから、現地でどのような生活を送るかが大切になります。
それでも、初めに移籍したマルセイユでは殻にこもっていたというか、自分からチームに溶け込んでいけませんでした。おそらく、「自分は日本代表」というプライドがあったり、日本でも移籍したことがなかったので、どう振る舞えばいいかわからなかったのだと思います。
文化も違うのに自分で壁をつくっていましたから、ほかの選手とはクラブハウスで話をしても、プライベートで食事に行くことは多くありませんでした。そうなると深い付き合いはできず、サッカーにも影響が出てしまいました。
──意外なエピソードです。
それでも、世間的にはマルセイユへの移籍は失敗と見られましたが、僕自身としてはその経験があったから、バーゼルに移籍したときは自分を変えていけたと思っています。ですから、あのタイミングで日本に帰らなくて本当に良かったです。
──当時は日本への帰国も考えていましたか。
いや、考えてはいませんでした。マルセイユでは最後は飼い殺しみたいな状態で、イスラエルのクラブに売り飛ばされそうにもなりました。日本からも、鹿島をはじめいくつかのチームからオファーはありましたが、日本に帰る選択肢はなかったですね。
──意地があったりしたのでしょうか。
自分のわがままで鹿島から移籍したこともあり、「何もやっていない中で、日本には帰れない」という思いはありましたし、そのまま帰ったら本当に失敗になります。マルセイユの経験を次に生かす意味でも、イタリアやスペインといったリーグにこだわらずに、クラブを探そうと思っていました。それで、バーゼルとウクライナのクラブから練習参加のオファーがきてテストを受けると、バーゼル自体も興味を持ってくれて移籍が決まったのです。

スイスでは自分から壁を壊す

──バーゼルではタイトル獲得に貢献するとともに、人間としての幅も広がったわけですね。
バーゼルでは自分よりも年下の若い選手が多かったのですが、今度は相手が壁をつくっていました。
──外国人はあまり気にしないと思っていましたが、壁があったのですか。
現在バルセロナに所属するクロアチア代表のラキティッチも在籍していましたが、若手選手からすると、僕は日本代表でW杯に2回出場した選手。向こうからすれば、「おおっ」となるわけです。もちろん、日本についてもそんなに知らなかったでしょうから、「日本人にはどう接していいのだろうか」と、多少構えたこともあると思います。
マルセイユでは互いに壁をつくることになりましたが、今回は向こうがつくった壁を自分から壊しにいきました。英語やフランス語で冗談を言ったりしてコミュニケーションを取るようになると、ピッチ上でもうまくいくようになり、その辺で自分も変わったと感じられました。
今の選手でいうと、インテルの長友佑都選手やシャルケの(内田)篤人のように、みんなからかわいがられる存在になるということは非常に大きいと思います。
──実際に、2人は現地でも非常に人気があります。
プレーで壁をねじ伏せていくというやり方も1つではありますが、日本人選手にとってコミュニケーションを取れるか取れないかは大きなポイントになりそうです。
もちろん、それは自分で気づかないといけませんし、現在も吉田麻也選手や岡崎慎司選手といった、相手の輪にフランクに入っていけるタイプが結果を残しているのではないかと思います。プレーでねじ伏せたのは、中田英寿さんと本田圭佑選手くらいですよ。

坊主頭になった知られざる裏話

──確かにそうかもしれません。中田さんはどのように壁を取り払っていきましたか。
一番うまくいったと思ったのは、合宿中に選手全員で湖を1周する船に乗ったときですね。そのときはお酒を飲んでいたわけではありませんでしたが、みんなが踊り出したりして、変なテンションになっていました。その状態でホテルに帰ると、バリカンを持ち出した選手が、みんなを坊主にし始めたんですよ。
──すごいエピソードですね。
当時はオーストラリア代表が2選手いて、アジア人は僕を含めて3人。それで、バリカンを持った選手は、オーストラリア代表の2人のところには行かなくて、僕のところに来たわけです。ところが、僕のところに来た瞬間、相手も「あっ、ヤバい」という顔になっていました。
──向こうも敬意を持っていますから、思わずビビったわけですね。
一瞬、たじろいだ感じになっていました。ただ、そのときは僕も「いいよ。やれよ」と頭を出して、笑いながら坊主にされたわけです。
バーゼル時代には主力としてプレーし、リーグ優勝にも貢献した(写真:AFLO)。
──当時は「ノリでやった」と話されていたと思いますが、そういう背景があったわけですか。
そうです。あそこで断っていたら壁ができていたと思います。オーストラリアの選手たちはすでに3、4年在籍していて英語も話せますから、周りもどういう選手かわかっています。しかし、こちらは移籍したばかりで英語もフランス語も完璧ではないという状態でした。
僕自身はノリで坊主にするタイプではないので、正直抵抗はありました。一方で、チームにどうやって溶け込むかとなれば、そういうところしかありませんから、「いいよ。刈れ刈れ」と。
──中田さんが坊主になっていて、ビックリした記憶があります。ちなみに、もしもマルセイユ時代にそういうノリがあったらやっていましたか。
たぶんやらなかったと思います。ただ、マルセイユでの経験があったから頭を出せたのでしょうね。

ワールドユースとの違い

──ワールドユースのときも坊主頭でしたが、それとは違ったのでしょうか。
あのときは同世代のチームで盛り上がっていて、「この試合に勝ったら、坊主にするか」と話していたら、本当に勝ってしまった。それでやるしかなかったということですが、稲本(潤一)も坊主にするタイプではないのにやっていましたよ。
──確かに、バリカンを持っている選手がたじろぐことはなかったと思います。それを思うとバーゼル時代は非常に深い意味での坊主だったわけですね。
そうです。当時はワイワイやっている中で坊主にしたので、バーゼルのときとは意味合いが違いました。
中編へつづく。