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孤独で理解されることが少ない

【作曲家・細川俊夫】「悲しみ」はそれが美しく表現されたときに浄化される

2016/3/19

細川俊夫作曲「海、静かな海」誕生

2016年1月24日、福島からヨーロッパ大陸を挟んだ反対側にある海の玄関、ドイツのハンブルクで東日本大震災による津波の犠牲者を題材にした新作オペラ「海、静かな海」の世界初演が行われた。胸を打たれて立ち上がり、心からの拍手を送る観客たちの表情を見ていると、歴史に刻まれるべき意義深い瞬間に立ち会っているという実感が湧いてきた。

そのオペラの作曲者は細川俊夫。「現役で活躍する日本人作曲家は?」と世界で問えば、「Hosokawa」と多くの人が答えるであろう。「保守的な日本の音楽界を抜け出し、ベルリンで約10年学んで、やっと作曲家として身を立てられるようになった」と語る細川氏は芸術家の使命を次のように定義する。

「芸術において『悲しみ』は、それが美しく表現されたときに浄化されると思っています。今まで、出身地である広島を扱った作品や東日本大震災を題材にした作品を多数書いてきましたが、それらは政治的メッセージとして受け取られることも多くあります。しかし私たち音楽家はメッセージを発しても弱い存在です。音楽に乗せて悲しみを溶かし、カタルシスを喚起することにより、魂を浄化していくことでしか、世界を変えていくことはできないと思っています」

「私たち作曲家は、日常生活の中で、常に新しい題材を探したり、頭の中で構想を練ったりしているものです。2011年に初演されたベルギーのモネ劇場委嘱作品『松風』も愛する人を失った悲しみが題材です。そして2013年ザルツブルク音楽祭で世界初演されたオーケストラとソプラノのための曲『嘆き』は、津波で失ったわが子の遺体を毎日海岸で捜し続ける母親の写真に胸を打たれてつくった曲です。その後も福島の放射能汚染や子どもを失った母を題材にした曲をつくっており、東日本大震災をテーマにした作品群の延長線上に位置する作品として、オペラという形態を取り、ドラマ性を高めたものをつくりたいと思っていた矢先、ある出会いがありました」

2012年11月、当時はスイスのバーゼル市立歌劇場総裁だったジョルジュ・デルノン氏が来日中に細川氏に会いに来た。「彼が率いたバーゼル市立歌劇場が年間最優秀歌劇場に選ばれるなど、大活躍しているデルノン氏は、2015年から、ケント・ナガノさんを音楽総監督に迎え、ハンブルグ州立歌劇場総裁になるので、記念すべき就任後初の委嘱作品を依頼したいというお話でした」

今までも能からインスピレーションを得た作品を書いている細川氏だが、このときは「隅田川」を下敷きにした新しい作品をつくりたいと思っていたのだという。そこで台本・演出は、細川氏の代表的オペラ「斑女」を広島の能舞台で演出した平田オリザ氏に託したいという、細川氏の意向がデルノン氏の主張と偶然にも一致してすぐに決定したという。

2012年にびわ湖ホールのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』演出のために来日していたデルノン氏 ©Peter Schnetz

2012年にびわ湖ホールのオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」演出のために来日していたデルノン氏(©Peter Schnetz)

日本とドイツの融合

しかし完成までの道のりは長かった。まずは平田氏が日本語で台本をつくる。それを独訳する。それをもとにドイツ人の台本作者にドイツ語の台本をつくってもらう。彼女は前出の「松風」の台本も書いているハンナ・デュブゲンである。ここまでに1年半の月日を要した。それから曲を紡ぎ始め、完成したのがちょうど8月6日、原爆の日であったのも何かの運命かもしれない。

オペラの総譜が完成した後、指揮者のナガノ氏が譜読みをするも、何かが足りないと感じたという。「日本人にとっては自国の、身を斬られるようなテーマでも、ドイツ人にとっては、対岸の火事的な距離感を持っているのは否めない。そのようなテーマを、瞑想音楽のような静けさで描いても、観客の心はつかめないのではないか」そんな注文を、細川氏はクリスマスの夜中に電話で叩き起こされて告げられた。

細川氏は、東日本大震災へのレクイエムのような作品にしたいと思ってきたが、そのような意見を尊重し、嵐を表現する間奏曲が付け加えられた。ドイツの観客に地震を疑似体験させ 、このテーマを共有してもらうことを優先したのだ。

さらに稽古が始まると、その間奏曲の一部を冒頭にも流し、一気に観客を地震&津波モードに引き込む策をデルノン氏から提案された。舞台上に鎮座する大きな円形の台は原子炉を、天井から縦につるされた蛍光灯の群は、核燃料棒を表現しているので、そこには原子炉の爆発音も表現されていると細川氏は語る。

開演前から舞台に立っているロボットもケント・ナガノ氏のアイデアだ。「ここは安全な場所です」と繰り返す姿が、なんとなく寂寥(せきりょう)感を誘う。水滴の音も実際にオーケストラの打楽器奏者が本物の水を垂らして、それをマイクで拾っているのだという。この効果のために歌劇場は、周りの音を拾わず、水滴の音だけを明瞭に拾う新しいマイクを購入したのだった。

これらの歌劇場側の対応に細川氏は大変満足していると語る。「この世界初演で終わりというわけではなく、2年後に再演を予定しているということで、舞台装置も頑丈につくってあり、私の要求にすべてベストを尽くしてくれたデルノンさんの意欲と熱意が感じられ、とても感謝しています」

オペラ『海、静かな海』の終幕場面。舞台左にはロボットの姿 ©Arno Declair

オペラ「海、静かな海」の終幕場面。舞台左にはロボットの姿(©Arno Declair)

観劇リポート

公演中はテレビカメラが入っていた。ユニテル主導だが、NHKテレビは3月14日(13日深夜)のプレミアムシアターで、20分ほどのドキュメンタリー映像と共にこのオペラを放映したので、再放送を期待しつつ冒頭のみをご紹介することにする。

客席に入った瞬間、観客は潮騒に包まれる。すでに幕は開いており、中央に円い台。腰掛けている数人の合唱団、傍らにロボットが安全を保証している声が響く。その状況が長く続くので、だんだん慣れてきた頃に開演。オーケストラで表現したごう音、爆音が客席をのみ込み、全員を悲しみの後の静かな海へ誘う。

細川氏が指名した日本人メゾソプラノ歌手藤村実穂子演じるハルコ、その兄嫁のクラウディアは、ドイツに前夫のシュテファンを残し、息子を連れて日本に来た。東北でバレエ教室を開いていたが、津波で夫と息子を一緒に失う。息子の死を受け入れられず、まるで生きているかのように話す姿が哀れみを誘う。

音楽的にはケント・ナガノの精密な指揮で、統制された美しい響きを保っていた。「お経」をほうふつとさせるポルタメント(音を滑らせて上下させる)の多い歌い方で柔らかに、しかし永続する悲しみに聴衆を包みこむ。細川氏は師匠から「作曲とは自分固有の楽器を創り上げることだ」という教えを受けたというが、水滴にしろ、風や波など自然を描写する音にしろ、ごう音までも自分の音楽の一部として表現し、それらによって独自の世界観をも創り上げる手法は、細川氏の意図する「浄化」を実現させる。

何故クラウディアはシュテファンをドイツに残して日本へ来たのか、問うてみた。「口の悪い人は『シュテファンがゲイだと気がついたから(女声のような発声で歌うカウンターテナーの役だから?)という人もいますが、私は『舞姫』の逆を意識しているのです。このオペラは『隅田川』と『舞姫』が土台となっている物語です」

ハンブルグ州立歌劇場の音楽総監督である指揮者のケント・ナガノ氏は日本のファン層も厚い。 ©B_Ealovega

ハンブルク州立歌劇場の音楽総監督である指揮者のケント・ナガノ氏は日本のファン層も厚い(©B_Ealovega)

作曲家の使命

日本を代表する作曲家として世界で戦い続けている細川氏に、そのエネルギーの源を尋ねてみた。「作曲家というのは孤独で、理解されることが少ない職業です。私は海や山がとても好きなのですが、大きな自然の世界の前でゼロになり、人間の原点に戻ると、そこから勇気をもらえます。1回すべてを忘れるような場所に立って、大自然の中で沈黙することで感受性を育てることが大切です。それから、音楽でいえば古典音楽など、今まで戦ってきた先人たちの残したものに触れることによって原動力が得られます」

「悲しみを別の次元に持っていく、それは祈りに近いものです。そうして人間の感情を高めること、同時代に生きている人間の感情を豊かにすることが芸術家の使命だと思っていますので、実際の公演に接し、観客が泣いてくれているところなどを見ると、その使命を全うできたという喜びが得られます」

これからも、こうした使命を実現できるようまい進していくのみと語る細川氏の言葉には使命感とエネルギーが満ちあふれていた。

4月には前述の「嘆き」がメゾソプラノの藤森実穂子をソリストに迎えて、ハンブルクで演奏される。5月から6月にはスイスのベルンで「斑女」が6回上演される。その他ベルギーのモネ劇場とワルシャワでは「松風」の上演が予定されている。こうして細川氏の芸術を武器にした戦いは続いていくのであろう。

ハンブルグ歌劇場 ©Westermann

ハンブルグ歌劇場(©Westermann)

(執筆:中 東生、編集:岡 徳之)