成熟時代だからこそベーシックインカムが必要

2016/3/18

子ども手当が潰された理由

2009年に民主党政権が誕生したときに看板政策として導入した「子ども手当」が2年ももたずに廃止となった理由もここにある。
その後政府が、不況対策や震災復興政策で何十兆円もの予算を次々に組んでいることを見ても、財源不足が本当の理由でないことは想像に難しくない。また子ども手当を廃止する代わりに設定したさまざまな控除項目や給付金を見れば、子ども手当廃止による財政負担の実質的な軽減幅はそれほどの金額にはならないという事実もこの推測を裏づけるものである。
行政は、子どもを抱える家庭を子ども手当によって応援することに反対しているのではない。また、子ども手当によって財政負担が拡大するのが本当に嫌なわけでもない。差配・裁量の余地──何を控除項目するか、給付の条件をどのように細かく設定するか、どういう手続きで給付認定をするか──が奪われることを嫌ったのである。

ニーズ対応型福祉のロジック

差配・裁量の余地を拡大したい行政が主張するのが、社会保障・社会福祉は“ニーズ対応型で”というロジックである。社会的弱者はそれぞれ弱者たる理由が異なっている。身体的障害で働けない人、子どもを抱えて十分に働けない人、要介護の老人の面倒を見なければならない人、円高の煽りで職を失った人……などに対して、それぞれ最適の社会保障と福祉のメニューを提供してあげましょう。
それも、できれば現金ではなく、施設やサービスという現物支給で、という考え方である(この考え方は、「困っているか困っていないかを問わずに、一律におカネをバラマクことは貴重な財源の浪費にしかなりません」というBI否定論につながっていく)。
もちろんこの考え方にも合理性がないわけではない。行政が善意で、最適の判断を行い、しかもフェアで効率的な運営を行うならば、合理的で無駄のない保障と福祉が実現するかもしれない。理屈の上では、成立する。
しかし実態は別である。社会保険庁の不正と怠慢は記憶に新しい。恣意性と裁量が介在する制度では必ず不正などが起きるものである。不正や怠慢ばかりではない。雇用保険料を財源にして建てた約2100カ所もの保養施設は、行政主導による社会保障の無駄と非効率のシンボルである。
つまり「社会保障はニーズ対応で」という考え方は、理想的な運用がなされれば効率的な社会保障を実現するための有効な方法論になり得る。だが、現実には逆で、行政の恣意と裁量によって、肥大化と非効率ばかりが生まれてしまうのである。

成熟時代だからこそBIが必要

この行政・官僚の本能ともいうべき差配と肥大化欲求がBIの実現を阻んでいる最大の要因であろう。日本は経済的にも人口動態的にも成熟期を迎え、社会保障や福祉の必要度は増す一方である。しかもそのための経済的余裕はますます少なくなっていく。
こうした状況に対処するためにも、社会の仕組みの効率化と公正化が不可欠である。社会保障と福祉の充実という成熟日本の最重要テーマを達成するためはもちろん、行政の肥大化と差配体質を正すためにも、BIを導入すべきだと筆者は考える。

「働かざる者、食うべからず」の規範と心情

BIに対する4つ目の阻害要因は「働かざる者、食うべからず」という規範の問題である。先に取り上げた「働かない者が増えるのではないか」と「巨額の財政負担は実現不可能ではないか」という問題が経済学的なイシューであり、「既得権を奪われることに対する行政の抵抗」という問題が政治制度の問題であったのに対して、この問題は国民の心情や社会規範に関わる問題である。
つまり、民主主義社会の主権者である国民の心情に根ざした反対論であるため、これまでに挙げた3つの問題提起よりもある意味では根が深く、これからの民主主義社会の在り方に関わる極めて本質的問題だということができよう。
「働かざる者、食うべからず」という道徳律は、キリスト教の聖書にもこの文言が書かれているくらいに歴史が古く、洋の東西も問わない普遍的な規範である。
この規範からすると、働こうが働かなかろうが等しく国民全員に生活できるだけのおカネを配るBIは「働かなくても、食ってよし」を意味しているわけであるから、当然認められないわけである。
汗水垂らして働いた人が、その対価として得た所得から払った税金で、働けるのに働きもせず、ブラブラしている人の生活費を賄うのだから、心情的に拒否感が生じるのは当然であろう。
しかし、その一方で、世界の先進国が歴史的に見てかつてないほど豊かな水準に達しているという“歴史的”事実がある。歴史的に、人口を決定する最大のファクターは、ずっと食糧生産に代表される経済力であった。
しかし、日本をはじめとする先進国は20世紀の後半以降、ついにその制約を超越する水準にまで豊かになった。つまり、1人の人間が生み出す生産物(GDP)が、“食うためだけの水準”を大きく上回る時代に到達したのである。何千万人、何億人ものスケールの国々が、これほどの経済水準に達したのは人類史上初である。
ならば、人類史上初の経済水準に見合った新しい規範と新しい社会保障制度があっても良いではないか、と私は考える。
現在、日本の1人当たり国民所得は約287万円。BIのモデルケースで使われる“食うために必要な金額”が1人当たり年間で約100万円であるから、食うための2.5倍強も稼いでいるわけである。
ならば、1人当たり国民所得の2.5分の1を国民全員に均等に分配して「働こうが、働かなかろうが、食って良し」とするのも、人類として大きな進歩ではなかろうか。
人類は帝国主義時代を経て、国際安全保障体制を構築した。東西冷戦の時代を経て、グローバル市場を実現した。
各国が戦争と侵略に明け暮れていた20世紀初頭にスイスは永世中立国宣言を果たし、20世紀中盤には日本が憲法9条によって戦争の放棄を宣言した。20世紀の終盤にはヨーロッパ各国が主権を一部譲り合うことによって欧州連合(EU)を成立させ、共通通貨ユーロを採用した。
これらの歴史は、人類の英知によって人類の深刻な問題を克服してきた人類の進歩の歴史である。20世紀の最後にロールズによって指摘され、21世紀の初頭にトマ・ピケティーによって実証された現在の人類の(特に先進資本主義国の)最大の問題は“格差”の問題である。
民主主義社会を根底から脅かす深刻な“格差”の問題を克服するためには、21世紀の新しい規範として「働かざる者も、食ってよし」とするBIは決して非常識な方法論ではなく、むしろ合理的な英知の選択だと考えるべきであろう。
(写真:竹井俊晴)