なぜベーシックインカムが実現しないのか、その課題と障害

2016/3/17

“分配論の切り札”

ここまで解説してきたように、BIには数々のメリットがあり、また政策や行政の役割に関してまったく異なる主張を持つコミュニタリアン、リバタリアン、ネオリベラリストがそろって支持している制度である。
格差問題に悩まされている現代の資本主義社会における、言わば“分配論の切り札”とも言える制度なのである。にもかかわらず、現実的にはフィンランドとスイスという例外的事例がようやく登場してきたくらいで、ほとんどの国では本格的検討の俎上(そじょう)にも載っていない。
民主主義社会の正義に合致し、制度としての有効性も高いとされるBIが、何故これまでほとんど実現していないのかについて解説していこう。
BIの実現を阻んでいる要因は大きく分けて4つある。
(1)「働かない人が増えるのではないか」という懸念
(2)巨額の財政負担が必要であることに対する財政的制約
(3)仕事と既得権に対する行政の執着
(4)「働かざる者、食うべからず」という規範に基づく人々の抵抗感
である。
これらBI実現の障害となっている要因について解説をしたうえで、それぞれの論点に対して筆者の考えるところを述べていこう。

働かない人が増えるという懸念

まず、「BIによって働かなくても生活できるようになれば、働かない人が増える」という懸念に関してであるが、こうした現象が発生することは十分に考えられる。
BIによって働かない人が大量に発生してしまうと経済活動が停滞してしまい、財政的にBIの源資を捻出することができなくなってしまうので、この論点はBI導入の是非を考えるうえで重要である。
しかし、BIがあるからといってまったく働かない人が大量に発生するかというと、筆者はそうは考えない。むしろ今はニートをやっている人の中には、BIが導入されれば逆に働くようになる者も少なからず出てくるのではないかとも考えられる。
どういうことかというと、BIが導入されれば、食うために無理をしてやりたくもない仕事をする必要がなくなる。生きていくために我慢して、好きでもない過酷な仕事をする必要がなくなるわけである。そして生きるためではなく、“楽しむため”や“やりがいのため”という前向きな動機で仕事に就くことが容易になる。
近代の社会哲学では「人間とは社会的存在であり、社会において自分の役割と存在理由を仕事(ワーク)によって自己確認する」と規定している。これに照らしても、最低限の生活ができるようになったとしても、仕事はまったくしないという人はそう多くはないと考えられよう。
楽しさややりがいを選択基準として仕事を選べる環境が整えば、現在ニートをしている人でも、仕事に就いてみようと考える人が出てくることは十分に考えられるのである。
当然、より良い暮らしをしたいとか、より高みを目指して自己実現を図ろうとする人たちは今と変わりなく働くであろう。現行の生活保護制度とは違って、BIでは働けば働くほど自ら得られるものは大きくなるのだから。
人々がこういう就労行動を取るようになると、雇用者が人を雇う場合に、低条件で過酷な仕事を押しつけることができなくなる。その一方で、好きな仕事なら賃金は低くてもやりたい、楽しめる仕事なら給料を気にせずに働きたい、という人も出てくるであろう。
つまり、BIが導入されると、就労の動機と職業選択の条件が現在とは大きく変化することが予測される。
従って、むしろ慎重に考慮すべきは、過酷な種類の労働の賃金が急上昇することによる影響である。
BIが導入されると、劣悪な条件で過酷な労働を求めることができなくなることは確実であろう。その一方で、BIによって生活が保障されているため、人々が面白いと感じたり、やりがいを得られたりする仕事は、現在よりも低い給与で働く人が出てくるはずである。
このとき、仕事ごとに発生する賃金の増減の総和が、現在と比べてコストアップになるのかどうか、が大事な論点になる。
筆者はこの点についてもそれほど悲観的になる必要はないと考えている。過酷な労働の賃金が上昇していけばロボットなどの代替策が次々に登場してくるであろう。
かつて事務職といわれた職種の人たちがやっていた転記、計算、ファイリングといった業務の8~9割が、今日ではコンピュータをはじめとするIT機器によって置換された事実を考えてみれば、現行の過酷な労働に関しても同様のことは十分に予測することができよう。
しかも日本は作業用ロボットにおいて高い技術力を有していることを併せて考慮すると、10~20年もあれば現在多くの人が我慢して働いている職種や業務の大半がロボットによって置き換わることは十分にあり得ることである。
すでに自動運転の自動車や原子炉施設内で作業する無人ロボットが実用化されていることを考えると、苦役型の作業は10~20年を待たずに次々と人からロボットに交代していくと考えられるのである。
そうした動きの一方で、苦役型の仕事に就かなくてもかまわなくなった人々の多くは面白さや、やりがいのある仕事に携わるようになると考えられる。面白い仕事とは知的レベルが高い仕事であったりクリエイティブな仕事であろう。
こうした仕事は、経済的付加価値が大きいので、先進国が目指すべき高付加価値型経済の要請に合致する。またやりがいのある仕事としては、現在NPOやNGOが取り組んでいるタイプの仕事が想定される。こうしたタイプの仕事は社会の厚生水準の向上に寄与するので、わが国をはじめとする成熟型国家には最適である。
このようにBIが導入されると働かない人が増えて、国民経済が沈没してしまうのではないかという懸念はそれほど重要な問題にはならないと考えることができる。むしろ、BIの導入は、高付加価値型の経済構造と社会の厚生レベル向上に直結する貴重なトリガーになる可能性も有しているのである。

巨大な財政負担に関する実現性

2つ目の問題として「BIにはあまりにも巨額の財政負担が必要なため、現実的には不可能」という論点について考えてみよう。この問題については、具体的な数字を使った試算に基づいて検討することが必要であろう。
日本でBIを導入するためのモデルとしては、BIを最初に提唱したお一人である小沢修司氏と、立岩真也氏、齊藤拓氏の試算が参考になる。
小沢氏によると、日本のBIの水準は現行の国民年金の水準とほぼ同等程度の月額8万円が妥当であるとし、その場合の必要源資は約122兆6000億円となる。
ただし、この122兆6000億円がすべて追加的に必要になるわけではない。基礎的年金や生活保護手当てといった社会保障給付は、BIによって代替されるので不要になる。そうした費用を差し引いて計算すると、BI導入のための追加コストは58兆4000億円となる(計算式は立岩真也氏、齊藤拓氏による『ベーシックインカム』〈青土社〉より)。
このように約60兆円の追加的財政投入を行えば、日本において国民全員に毎月8万円のBIを給付できることになる。ちなみにこのときの国民負担率(国民所得に占める税金と社会保険料が占める割合)は、現行の約40%から約60%に上昇する。
この試算を前提に「BIはあまりにも巨額の財政負担が必要なため、現実的には不可能」という問題提起について考えてみよう。
冷静に考えると、消費税が5%から8%に引き上げられたこと(追加負担は約5兆円)が景気の腰折れを招いてしまったり、かつて民主党政権のときに月額2万6000円(総予算5兆3000億円)の子ども手当を導入しようとして財源不足を理由に成立が難航したりしたことなどを考えると、60兆円という追加的予算規模は途方もない金額にも思える。
ただし筆者としては、60兆円の追加的負担および国民負担率40%→60%へのアップは決して不可能な選択だとは思わない。
国民負担率60%という水準は先進国においては決して珍しいわけではない。西欧諸国では、フランス65.7%、イタリア63.1%であり、高福祉国家を指向している北欧諸国では、デンマーク67.8%、フィンランド62.4%である。
そして特筆すべきは、高福祉の北欧諸国は国民が安心して生活していくことができるというセーフティーネットを充実させたことによって社会が安定するだけでなく、高付加価値産業への産業構造シフトが実現して、各国ともに経済が好調である。
北欧諸国の2004年当時は国民負担率はデンマーク72.5%、スウェーデン70.2%、フィンランド62.3%、ノルウェー58.4%と軒並み高率であった。しかし、手厚い社会保障が有力な社会インフラとして機能し、国家単位での産業構造のリストラと高付加価値化へのシフトが進み、その後目覚ましい経済発展を遂げてきているのだ。
北欧諸国のこの10年間の平均成長率は約4.4%となっており、まったく成長できないでいる平均成長率マイナス0.1%の日本はもとより、欧州連合(EU)全体の平均成長率である3.1%と比べても有意に高いパフォーマンスを示していることが成功を物語っている。
つまり、高福祉や社会のセーフティーネットは単に社会的弱者を救済するためだけではなく、産業構造の高度化や経済成長にも寄与し得るという効力も持ち合わせていることに留意すべきであろう。
こうした現実を考えると、60%という国民負担率は決して非現実的な水準ではないし、追加的な負担をどう配分するかといえば、具体的には富裕層に重点的に負担してもらうようにすれば、貧困の解消だけでなく、階級格差の固定化という現在の経済停滞の真因となっている問題の解決にも寄与し得ると期待できるのである。

仕事と既得権に対する行政の執着

BI導入に対する3つ目の要因である「仕事と既得権に対する行政の執着」は、現実的には最も厄介な障害かもしれない。
BIの特長である、制度がシンプルであり、恣意性と裁量を排除することができるというのは、利用者である国民にとっては大きなメリットであるが、行政を司る側にとっては仕事が奪われ、裁量の余地がなくなることを意味する。
タクシーの運転手だろうが、大学の教授だろうが、どのような仕事に就いている人も、自分の仕事がなくなることに対して抵抗するのはいわば当然のことである。しかも行政に携わっている人は国家公務員と地方公務員を合わせて現在340万人(公営法人を合わせると約540万人)もいるわけであるから、その抵抗のパワーは相当に大きいと予想される。
そもそも、現行の社会保障、社会福祉の制度が非常に複雑になってしまっている現実は、自分たちの仕事と裁量の範囲を広げたいという行政の意図がからんでいる。これは日本に限らず、官僚制度が普遍的に持っている自己肥大化を志向する官僚組織の本能に基づくものであり根が深い。
日本では35年も前に土光臨調で取り上げて以来、常に「行革」が重大な政治テーマになっているにもかかわらず、行政機構の簡素化はあまり進んでいない。
地方の行政機構の整理を狙って2000年から始まった平成の大合併でも、地方自治体の数や議員の定数がかなり減ったにもかかわらず、行政職の数はあまり減っていない。自治体の数は3232(1999年3月31日時点)から1727(2010年3月31日時点)へと47%減った。
市町村議員の数も5万9598人(1999年)から3万3695人(2010年)へと43%減らした。これに対して、同じ時期に地方自治体の行政職員の数は13%しか減っていない。
人数の話だけではない。行政官僚は仕事を細分化し、複雑化させる。国交省が管轄する駅などの建造物と、厚労省が管轄する保養所などの施設と、文科省が管轄する学校の建物では、ドアや窓のサイズや天井の高さに至るまで仕様が異なる。
建造物を建てるための工法の手順や規定も、それぞれの省が独自のものを定めているためである。利用する側からすれば、「一体何のためにこだわっているのか」と思うほどさまつなルールや仕様を定め、効率性や社会コストの観点は軽視している。
細かい規定を定め、手続きを複雑化して、裁量の余地を広げ、差配の範囲を広げることを仕事としている行政官が、シンプルかつ裁量の余地がなく、多くの行政官が不要になるBIに対して強い抵抗を示すのはこのためなのである。
(写真:竹井俊晴)