バルサの扉を開いた日本人(前編)
バルサに入った初の日本人。早朝4時のタクシー面談で採用をつかむ
2016/1/19
かつて、FCバルセロナのフロントに在籍していた日本人がいる。
バルサといえば、100年を超える歴史を持つスペインの超名門サッカークラブだ。現在所属しているメッシをはじめ、クライフやマラドーナ、ロナウジーニョなど、一時代を築いた名選手を擁してきた。昨年12月には、日本で行われたクラブW杯で優勝。現在は、名実ともに世界ナンバーワンクラブとして君臨している。
当然ながらフロントに入ろうとしても、世界の精鋭たちが押し寄せるような狭き門だ。ところが、並大抵のことでは仕事を得られないトップクラブに、2004年に斎藤聡がアジア人として初めて足を踏み入れた。
異国スペインの地で、いかにして職を射止めることができたのか。UEFAチャンピオンズリーグ放映権とスポンサー権利セールスのアジア・パシフィック&中東・北アフリカ地区統括責任者を務める岡部恭英が話を聞いた。
バルサで初めての日本人
岡部:斎藤さんは僕の慶應大学ソッカー部時代の1つ下の後輩ですが、アジア人として初めて欧州名門クラブのフロントに入った人物でもあります。サッカー界の名門クラブであるバルサに入るまでは、さまざまな苦労があったと思います。
斎藤:大学卒業後は伊藤忠商事に入社して、充実感のある仕事ができました。ところが、当時は若かったこともあり、どこかで「これは違う」「自分の好きな仕事をしないといけない」と感じてしまうときがありました。
そこで伊藤忠を退職して、どんな仕事でも応用できるだろうとMBAを目指し始めました。あのときは、MBA取得後の道についても考えました。ファイナンスの道に進むのか、あるいはコンサルタントになるのか。ただ、「どれも違うな」と。そこで、「サッカーだな」と思い至りました。
岡部:MBAの受験準備中には、アメリカに住んでいた僕を訪ねてくれました。さまざまな教材を見せてくれて、まだ受かってもいないのに「MBAはこうやって勉強するらしい」と、とうとうと説いていましたね(笑)!
ただ、あれがなければ、その後に僕自身MBA取得を目指すこともなかったかもしれませんし、今の仕事につながることもなかったはずです。それだけに、斎藤さんには非常に感謝しています。
斎藤:実はアメリカで岡部さんを訪ねたとき、「サッカーの仕事をすることが、僕らの望むことだったはず」と言ってくれたんです。それが後押しとなり、MBAを取得してからは、やはりサッカーの仕事に就こうと考えました。そのためにはどうすればいいのか考え、昔からFCバルセロナが好きだったことで、スペインのバルセロナにあるMBAを調べることから始めました。
「バルサで働かせてくれ」
岡部:FCバルセロナでいえば、ブラジル代表だったロマーリオとか好きでしたよね。
斎藤:ロマーリオは大好きでした。ロマーリオや、今ではスアレスのような悪童と呼ばれる選手を受け入れるFCバルセロナというクラブの器が好きで。サッカーの仕事をするならバルサで。バルサで働くならばバルセロナにあるMBAに行こうと決めました。
岡部:それがESADE(エサデ)という、スペインの超名門大学だったわけですね。
斎藤:前会長であるサンドロ・ロセイや当時の副会長やマーケティングダイレクターなど、バルサのクラブ関係者の多くがエサデを卒業しています。そこで、「エサデでスポーツビジネスクラブを立ち上げてクラブ関係者を呼べば、素晴らしいネットワークが構築できる」という論文を書いたことで合格できました。
それに、「MBAを取って何がやりたいんだ」と聞かれれば、「FCバルセロナで働きたい。それで、バルサを世界のブランドにしたい」と、言い続けていたわけです。クラブで働きたいという日本人もそれまでいませんでしたし、僕に失うものはありませんでした。
当然「日本人がなんで来たんだ」と、最初は誰も相手にしてくれません。ただ、とにかく会う人すべてに「バルサで働かせてくれ」と言い続けていたら、バルサのクラブ関係者に会えました。そして、実際にスポーツビジネスクラブを立ち上げて、セミナーを開催した際にバルサのマーケティングダイレクターを呼んだこともあります。
岡部:なるほど。
斎藤:そのときに「毎日履歴書を送りつけてくるのはお前か」と言われました。ただ、僕も「そうです。なぜなら、FCバルセロナに入りたいからエサデに来たのですから。それであなたは同じ大学出身ならば、後輩を助けるのは当たり前じゃないですか」と答えていましたね。
もちろん、スペインにそんな感覚はありませんでしたが、岡部さんに教えられた日本のタテ社会における良いところを使ったわけです。
岡部:調子いいですね(笑)。
バルサとレアルの関係性
斎藤:相手も最初は嫌がっていました。ところが、当時はライバルのレアル・マドリードの調子が良かった時代。ベッカムやジダン、ロナウドらが在籍して銀河系軍団と呼ばれ、日本をはじめとするアジアツアーも行っていました。
FCバルセロナには「レアルがやったらわれわれもやる」というような、レアルとは常に対等という考えがあります。ですから、当時は彼らにしてもアジアツアーや世界戦略を考え始めた頃でした。良いタイミングだったことで、「この日本人は面白いかもしれない」と思われ、クラブの日本語版サイトをつくるところから始まりました。
岡部:一度断られたらほとんどの場合諦めてしまうところですが、斎藤さんはどうにかFCバルセロナに入ろうとして、毎日トライしていたわけですね。
自費でバルサの日本ツアーに帯同
斎藤:それに、ちょうどその年には夏に日本ツアーがありました。僕も授業が休みに入ったので、自費で先回りして帰国して、日本でチームの到着を待ち構えていました。クラブがおカネを出してくれたわけではありませんでしたが、日本ツアーでさまざまな仕事をこなしました。それが認められ、後の正職員採用にもつながったと思います。
岡部:事前にクラブにお願いしたときに、「おカネは出せない」と言われていたそうですね。それならばと、自分でチケットを買って先に帰っていた。相手もそこまで来たら、通訳としてでも使ってみますよね。
斎藤:スペイン人は夜遊びが好きですから、日本ツアーでも試合後にみんなで町に繰り出して、夜通し遊ぶわけです。そのまま早朝の築地市場の競りを見たがって、タクシーで築地に向かったこともありました。そのとき、たまたま当時のフェラン・ソリアーノ副会長(現マンチェスター・シティーCEO)と同じタクシーに乗ることがありました。
そうしたら、数人の役員が乗り込んでいて僕も前の助手席に座っていたら、後ろにいたフェランが「お前は誰だ」と僕に言うわけです。
岡部:(笑)。
タクシーピッチでチャンスをつかむ
斎藤:そのときも「僕はあなたの後輩です。バルサというクラブで働きたくて、バルセロナにいます」と答えました。すると、フェランは的を射るような質問をしてきたのです。
「どういう環境で育ったのか」「どういう経験をしてきたのか」「どういうパッションを持っていて、これからバルサで何をやりたいのか」と。朝4時くらいの築地に行くタクシーで面談が始まったわけです。
岡部:アングロサクソンの世界では、エレベーターに乗っている30秒ほどで、突如出会った偉い人にプレゼンをすることを“エレベーターピッチ”といいますが、まさしく“タクシーピッチ”ですね。
斎藤:フェランが後ろから質問して、僕は前から振り向きながら答える。でも、そんな状態でも情熱は通じて、築地に着くときには、「バルサにずっといてくれるんだろうな」という話をしてもらえました。
どこにチャンスがあるかわかりませんが、一緒にそういう経験をしたことが正式にバルサに入るきっかけになったと思います。僕は当時大学院生でしたが、2学期にあたるセカンドセメスターからバルサの一員として働き始めました。
クラブ公式TVでの3つの方針
岡部:仕事内容はどのようなものでしたか。
斎藤:国際マーケティング部という部署に所属し、一番大きな仕事はクラブオフィシャルテレビ番組だった「バルサTV」を日本で放送し始めたことです。バルサTVのスペイン国外での放送は日本が初めて。当時は他国で放送するということなんて、誰も考えていないことでした。しかし、日本のスポーツ専門局である「J SPORTS」と契約を結び、2005年に放送が始まりました。
当時はスペインサッカーへの造詣が深い原博実さん(現日本サッカー協会専務理事)にナビゲーターになっていただき、「バルサ・エス・バルサ」というクラブの情報番組をつくったことがありましたが、番組づくりで気をつけたことが3つありました。
岡部:詳しく教えてください。
斎藤:1つ目はレアル・マドリードとの違いを出すこと。当時のバルサは、レアル・マドリードのようにスター選手がそろっていたわけではなく、リーグ戦でも勝てない時期が続いていました。しかし、クラブはポゼッションを軸にした攻撃的なパスサッカーをするという哲学がありました。そのスタイルを日本の方々にも知ってもらいたいということです。
2つ目は「Més que un club(クラブ以上の存在)」という考えを伝えること。僕は当時、「クラブの枠を超えて」と訳しましたが、所属選手ではなくクラブ自体の価値が高いという意味ですが、日本では理解されにくい考えでもあります。
今もメッシやネイマール、スアレスらがそろっているからすごいと思われますが、実際はバルサというクラブがあるからこそ、個々の選手が輝くのです。そういうことを広めていこうとしていました。
そして3つ目は、しっかりと下部組織から選手を育てているところを見せることでした。おカネで完成された選手を獲得するのではなく、下部組織で育った選手がトップチームに昇格して活躍するところを紹介していました。番組の中で、14歳の頃のメッシの映像も流して、選手の下部組織時代から応援するようなファンを増やそうとしました。
恋愛しているかのようなときめき
岡部:実際に憧れのFCバルセロナで働く感覚は、どういうものでしたか。
斎藤:毎日、恋愛しているかのようにときめいていましたね。ホームスタジアムであるカンプ・ノウの中にオフィスがあって、家もすぐ近くに借りました。
仕事をさぼって、練習をよく見に行っていましたよ。それで、週末になると自分のアクレディテーションカードでスタジアムに入って、空いている座席で試合を見ているわけです。そういう意味ではやはり夢のようでした。本当にバルサ好きであれば、おカネを出しても買えないくらいの体験です。
忘れられない思い出として、大学院の卒業式の日に突然マーケティングダイレクターに呼ばれたこともありました。「なんだろう」と思いながら彼の部屋に入ると、「サトシの卒業式は今日だよな」と。
「そうです。卒業式なので、早く学校に行きます」という話をしたら、「いや、ちょっと君に話がある」と言われ、「僕もエサデの卒業生だから、君にお祝いを贈りたい」という言葉とともに渡されたのが、正職員としての契約書でした。
それで大学院の卒業と同時に正職員になったわけですが、FCバルセロナにはそういう演出が非常にうまく、心を揺さぶってくるような人々が多かったですね。
(構成:小谷紘友、写真:福田俊介、アフロ)
*本連載は毎週火曜日に掲載予定です。